プロジェクトの直接申し込みと支援の寄付について

これまで、このプロジェクトを進める中で、利権の剥奪や各種妨害が続きました。2021年に私は、やむを得ず他国への亡命を試みましたが、許されず70日の無実の拘束を受けました。そして半ば強制的に帰国させられました。しかし、2023年11月に再び国内での活動に限界を感じ、海外に出ました。ところが、今度は海外で事業収益が止められました。
この状況が“計画的に準備“されており、10日後、滞在先のポーランドの山中で餓死することになる。もしこれが、あなたの前にふりかかった現実だとしたら、どのように乗り切るでしょうか?私は、最後の力を振り絞り、2つの事を決めました。
 
1、7月20日と21日に、プロジェクトの直接申し込みを行う。
2、個人的な支援の寄付を募る。(寄付の詳細は最後に記載しています)
 
1は、前回と同じクラクフの中心部で行います。詳細も同じで、会場については、開始1時間前にこのブログ上で公開いたします。詳細→ https://www.elieux.com/blog/20240628115903/
2は、これまでに何があったのか?なぜ支援の寄付を募るのかをご説明します。私の考えや予測については断定を避けて記載します。そして、現実として起きてきたこと、実際に私が取った行動を中心に記載します。作り話ではない、現実なので、恐怖を感じてしまうところもあるかもしれませんが、ご覧いただけましたら幸いです。

支援の寄付について

これまで、日本人が他国に亡命という事例はあまりないようです。平和で豊かな国をわざわざ離れる理由もないからでしょう。しかし、私はユニバーサルショットプロジェクトを進める中で、亡命せざるを得ないような状況になってしまいました。
長くなりますので、時間のない方は、このページの後方の「12. なぜ妨害が拡大したのか?」からご覧ください。時間がある方は、子供の頃からこれまでの事を時系列を追って認めましたので、順にご覧いただけましたら幸いです。
01. あまり言いたくありませんが・・・。私の子供の頃と家族について。
私は日本の岐阜県の田舎で農業をする家族の3女として生まれました。その後、妹も二人生まれて、5姉妹になりました。一番下の妹が生まれた頃は、両親と祖母の8人家族でした。私の名前の漢字は、「歌」「王」「里」でかおりという名前でした、姓名判断の人に頂いた3つの名前のうちの一つでした。しかしこの3つの漢字の名前が珍しく、子供の頃は「歌の王」とからかわれるので、この名前が好きではありませんでした。人前で歌を歌うのは苦手になりましたが、大人になると“珍しい“という事を肯定するようになりました。
 
私は小さい頃は体が弱く泣き虫で、のろまで冴えない子供でした。唯一、何かものを作る事は好きで、没頭する事はありました。小学校1年生の時、夏休みの自由課題でお城を作りました。母がプラモデルのケースの段ボールと、レンガの模様の包装紙を見つけて、勧めてくれました。私は「三匹の子豚」のストーリーで、3番目の子豚が、レンガを一つずつ積み上げていたことを思い出しました。そしてレンガの包装紙のレンガを1つずつバラバラに切りました。そして1ミリほどの隙間を開けて、交互にレンガを積み上げるようにして貼り付けていきました。母は、そのレンガの包装紙を、切らずに段ボールに貼る事を想定していました。レンガを全部バラバラに切って貼るなんて、とんでもない徒労です。しかし、母はそれを叱らず、褒めてくれました。私は毎日、1歳の妹のそばで、朝から晩まで小さなレンガを積み上げ続けました。ノリがなくなって、ご飯の粒で貼り付けたところもありました。数週間後に、わずかな隙間を開けて積み上げられたレンガのお城は、不思議な存在感を醸し出しました。その作品が最優秀作品として選ばれたので、生まれて初めて少しの自信と達成感を感じました。
 一番上の姉は優秀でした。妹の私から見ると5歳上の姉はしっかりしていて、もの知りで頼れる姉でした。高校くらいからラジオ講座で中国を学び、大学時代に中国に留学しました。物事をじっくり考え、しっかり準備するタイプでした。旅行先でお土産などを買う時も、時間をかけて選びます。姉から受け取るお土産やプレゼントは、自分の事をよく考えて、選んでくれたという事が伝わってきて、いつも嬉しく思いました。時には厳しい面もありますが、その分優しさが響きます。
一歳年下の2番目の姉は、いつも一番上の姉と比較されていました。叱られてばかりで、妹の私から見ても可哀想でした。「勉強しないなら、仕事を手伝いなさい。」と差別的な扱いもありました。さらに姉は、学校の帰り道に近所の男の子たちに石を投げつけられ、血だらけになって帰ってきたことがありました。私はその痛々しい姿を見て、男の子に恐怖を感じました。2番目の姉がいてくれたおかげで、「何をしてはいけないか?」や「危険」を察知することができました。本当に私は救われていたのではないかと思います。こうした環境であったにも関わらず、彼女は家を離れて就職すると、とても頼り甲斐のある社会人に変貌していました。人の痛みがわかるので、カウンセリングなどもできるのではないかと思います。
 
 2番目の姉の事件もあって、学校では男の子が苦手でした。学校でみんなでからかったりいじめてくる子が、家に帰ると一変して「一緒に遊ぼう」とやってくるのです。対して悪気はないという事が、小さな子供の私には理解できず、真剣に悩みました。ある時は、学校の清掃の時間に、クラスの男の子が小さな鶏小屋の外から鍵をかけて、私を閉じ込めました。よくあるイタズラです。子供にとって、鶏は膝の位置より大きく、クシバシでつっつかれると痛いのです。例え5分でも鶏小屋の中で過ごした恐怖体験はトラウマになりました。しかし大人になった今では、鶏が小さくみえて可愛いと思えるようになりました。
 私は子供の頃は体が弱く、心臓の肋膜に影があると言われていました。水泳や体育の授業はほとんど見学していました。しかし10歳の時、祖母の勧めで小学生の集まる“生長の家“という宗教の合宿に参加しました。キリスト教で言えば、ボーイスカウトの合宿に近いかもしれません。一人一人が「神の子」であると教わりました。「こんな自分も神様の子なのだろうか?」力が湧いてくるような気がしました。合宿での体験がきっかけになり、自信を持てるようになりました。毎朝のマラソンに参加するようになり、長距離を走ることができるようになっていきました。そして父や姉が毎朝一緒に走ってくれるようになりました。翌年、駅伝の選手に選ばれ、中学や高校では学年で一番速く走るようになっていました。心臓の病気はいつの間にかなくなっていました。

 私の家では、トマトのハウス栽培をしていて、子供は家の手伝いをするのがルールでした。姉や妹と「他の家に生まれるべきだった」などと言っていましたが、少しお小遣いがもらえた時もありました。夕方17時の出荷の時間になると、みんな集まって流れ作業で準備しました。トマトの収穫を手伝うこともありました。赤くなり始めたトマトを、ハサミで切るだけです。でも1分でも多く遊びたい子供にとっては、退屈なのです。それを紛らせるために、私はその場で物語を創作し、話ながら作業をしました。祖母と2番目の姉は、私の思いつく突拍子もないストーリー展開を、面白がって聞いてくれました。それは、少しMr, CORONAのストーリー制作に役立ったかもしれません。
 私が子供の頃は、まだインターネットがなく、今のスマホの変わりはテレビでした。学校では面白かったテレビの話題が、友達との会話に出てくる。という感じです。しかし私の家には、テレビが子供達に正式に解禁されるのは、日曜日の午後18時から21時だけでした。それ以外の日は、何とテレビのコンセントのコードが切断され、隠されるのです。コンセントごとそのまま隠す方法もあったと思います。しかし、わざわざ「切断されている」という衝撃は、“テレビ禁止“のイメージを鮮烈に掻き立てました。日曜日になると、コンセントのコードが一時的にビニールテープで修復されます。「ちびまる子ちゃん」や「サザエさん」などのアニメから始まり、最後はNHKの大河ドラマを家族で見るという流れでした。子供にとって歴史小説的な大河ドラマは、難しかったのですが、週に一度の許された機会だったので、楽しみでした。
 時々、家族がいない時に、姉や妹と隠されたコンセントを探し出し、コンセントを修復してこっそりテレビを見たこともありました。性格のバラバラな姉妹が、珍しく協力する一時です。一人は窓際で家族が帰ってこないか見張り・・・。もう一人はコンセントの前でコードを握りしめて、取り外す準備をしながら見ます。スリルが加わり、もしかしたらより面白かったかもしれません。しかしそれを察した家族も、家の裏から音を立てずに帰ってきて、見事に見つかってしまったこともありました。
 
 農業を営む両親や祖母は、丹精込めてハウス栽培のトマトを育て、コツコツと真面目に働いてきました。私は学校の課題や仕事で徹夜をすることがありましたが、家族も忙しい時は、早朝や深夜にも仕事をしていました。そうした努力を惜しまない姿勢を、家族から自然に学んでいたところもあると思います。世間が休みでも、トマトは成長を止めてくれません。なので休日はなく、ほとんど365日働いていました。
 特に父は、自然が好きだったので、仕事において努力という重々しさを感じさせませんでした。自分の好きなことを楽しんでいる様子で、その姿勢は私の仕事やクリエーションにも、とても大きな影響を与えてくれました。長時間続けても疲れない秘訣のひとつは、楽しんでいることではないかと思います。そしてずっと全速力ではなく、自分のコンディションに合わせて、ゆったり進められる仕事に切り替えたりもしていました。父は実直で物事の本質を見る目がありました。それは、直感的に、そして合理的にも捉えます。生花なども特に習ったわけではなかったと思いますが、美しいかどうか見極める目がありました。家族は、家のルールや大事な事は、父の判断に従ってきました。政治や選挙にも目を向ける一方で、時々、面白い事を言う一面もありました。
 母は、日本人であるにもかかわらず、子供の一人一人の個性を尊重してくれました。そのため、一定のルールはありましたが、自分らしく自由にのびのびと成長することができました。それは母の愛の器が大きかったということと、信仰を大切にする姿勢があったからだと思います。また5人も子供がいながら、仕事も家事もやりくりしていました。大事なところを抑えて、あとは手際よく仕事をこなす能力があったのだと思います。社交的で物知りな側面もあり、家族の中で話を盛り上げるのは母でした。若い時にフラワーデザインを学んでいたので、母が生ける花瓶の花は、どこか魅力的でした。その後母は、東京でお金を貯めてイギリスに留学する準備をしていました。しかし、母のお父さんに連れ戻され結婚したという過去がありました。その夢も託して、私の留学を一番応援してくれたのも母でした。
 祖母は、40代の頃に祖父が病気で他界したこともあり、一人で大変だったと思います。でも自分の不遇や苦労をまるで忘れたかのように、いつも家族や私たちをあたたかく見守ってくれました。時々、編み物や縫い物をし、それを教えてくれたりしました。ものを作るのが好きな私の創作意欲は、一段と掻き立てられました。わりと綺麗好きで、準備の段取りが良く、さっぱりした身なりや生活をしていました。しつけ上手で、孫の成長を一つ一つ喜んでくれました。私は車を運転するようになった頃、祖母を車に乗せて、京都の高齢者向けの合宿に連れて行ってあげたことがありました。琵琶湖の湖畔で休憩のピクニックをして、京都まで4時間ほどでした。その時のこともみんなに、何度も何度も嬉しそうに話し、喜んでくれました。

 すぐ下の妹は、私と5歳離れていました。小さい頃から人懐っこく愛嬌があり、人見知りせず誰とでも話せるタイプでした。手先が器用で、私のコンテストの作品の制作を手伝ってくれたこともありました。糸にビーズを通してほしいとお願いすると、学校の友達にまで声をかけてくれました。さらに「授業中にもやってたら、先生に見つかった。」などと言っていたので「それは止めて欲しい。」と伝えましたが、本当に嬉しく思いました。美容師になり、きめ細かい丁寧な仕事を、テキパキとこなす姿を頼もしく思いました。兄弟の中で一番早く結婚し、二人の子供を育て、他の兄弟の分まで親孝行をしてくれたと思います。家族を大切にする姿は、私も憧れました。感性も豊かでセンスがあり、今ではシックでモダンなアクセサリーのブランドも立ち上げました。

 一番下の妹は、私と10歳離れていました。生まれた頃から、可愛くて遊んだり面倒を見るのも好きでした。妹は、よく私の作業をしている部屋に遊びに来ました。私は、“天空の城ラピュタ“というアニメの鐘の音の曲を、部屋に呼ぶ合図に流していました。曲が流れると妹は、一段一段階段をよじ登って2階の私の部屋に現れます。しかし、妹は、私がその曲が好きなんだと思っていたようです。私の方は妹が好きな曲だと思っていたのですが・・・。姉が四人もいたので、私が思う以上に大人びた成長をしていたかもしれません。妹は幼い頃から、私がコンテストで製作している作品を見る目もありました。時々、何気なく言う意見に、「なるほど。」と思うこともありました。感性が冴え、手先も器用で、繊細なものづくりをしました。そして私と同じ、ファッションの学校に行き、今ではラグジュアリーブランドのデザイナーのアシスタントをしています。

 

 農業には、至る所に手仕事を中心とした創造性が溢れていました。春夏秋冬の自然の変化と共に仕事が存在することは、当たり前でありながら、奇跡に満ちていました。私は25歳の時、日本を離れてフランスに10年住みました。出発は春で、丁度桜が咲く頃でした。「みんなで花見に行こう」と言うと、「忙しい」と言われました。確かに春は収穫のメインの季節で、みんなの睡眠も少なくなるのです。そこである朝早く起き、全員のお昼のお弁当を作りました。花見のピクニックの必要備品も車に詰め込みました。私は午前の仕事の手伝いを終えると、早めに家に帰りました。そして、昼食のために家に帰る途中のみんなを、車に乗せて出発しました。近くの桜並木でしたが、本当に綺麗で、一時の癒しの時間を満喫しました。この家族のもとに生まれなかったら、今の自分は存在しないことは確かです。誰もがそうかもしれませんが、自分にとってなくてはならない、唯一の存在でした。
 
02. やっと“物心“がついた高校時代
私は、冴えない子供だったので、ある意味で“物心“がついたのは高校生ぐらいだったのかもしれません。両親は進学することを勧めましたが、私は勉強が嫌いで、ものを作ることが好きでした。2番目の姉が、高校で家政科を学ぶ学校に行き、服を作っているのを見て羨ましく思いました。絵を描くのも好きで、服飾デザインの高校に行きたいと言いました。その学校までは、片道16キロあり、交通機関の少ない田舎では通学の手段がありません。それでも自転車で通うと言ったので、父はその学校に私と自転車を置きざりにして、先に帰りました。私は、速く帰れなかったら、行けなくなると思い、長距離走で培った体力を全開して、猛スピードで帰りました。50分で家にたどり着いたので、家族は反対しなくなりました。入学後は、どんなに頑張っても自転車で55分かかり、50分の記録はとうとう幻になりました。
 高校は自分の好きなもの作りの授業が多く、女子校ならではの自由奔放さがあり、人生が変わりました。部活は美術部に入り、銀細工のシルバーの指輪を作ったりしました。しかし、体が動かしたくなり、バドミントン部に変わりました。往復32キロの自転車通学に加え、朝と夕方の練習はハードでしたが、とても充実感がありました。バドミントンは本格的に練習すると、スマッシュの威力も変わります。全身を使って打つとシャトルはぐんと伸びて飛び、爽快感もありました。

 専攻した服飾デザイン学科ではファッションデザインコンテストに応募する事がよくありました。初めて応募したコンテストで、デザイン画の一次通過をすると、ニ次審査に向けで実物作品を制作します。初めての経験で、締切日に完成できていませんでした。当時の国語の先生は、女性でしたが、厳しくて教科書が投げつけられることもありました。授業前にその先生の元に駆け込み、恐る恐る事情を説明し、「今日が締切なので、作品制作のために欠席させてください。」と申し出ました。ところが、先生はとても優しく、「いいわよ。他にも手伝って欲しい人がいたら、一緒にやりなさい。」と言ってくれました。先生の意外な一面に驚いたクラスの半分くらいの子達が、実習室に手伝いに来てくれました。
 ところがその事を聞きつけた“学校でナンバーワン“と言われる怖い先生が怒鳴り込んできました。「バーンッ!!!」ドアが壊れるかと思うほど、物凄い音で扉が開きました。彼女が私の招いたクーデターを叱ると、みんなはネズミが隠れていくように教室に戻りました。そして先生は、あと何をしなければならないのか聞き出し、私の作品を取り上げました。その後、他の先生や学校に遊びに来ていた先輩にまで手伝わせて、進めてくれていました。そして夜までに何とか完成させることができました。ところがアクシデントは続きました。私が製作した洋服と同素材のブーツが、モデルさんの足のサイズには小さかったのです。仕方なくファッションショーのときはハイヒールで代用されました。しかし、思いがけずその作品が最優秀賞を受賞し、行天しました。
 田舎の女子校でしたが、クラスのみんなも先生も、素朴で明るく心根の優しい子ばかりでした。そのふるさとの優しさは、違う都市や国で生活してみると、本当に身に染みてわかりました。私はクーデターに参加してくれたみんなに、ささやかでしたがお礼のお菓子をプレゼントしました。高校での三年間は、友達や先生に恵まれ、ぎっしりと思い出の詰まったものになりました。それ以降、モードの専門学校に進学してからも、コンテストに明け暮れることとなりました。締め切りが迫ると、徹夜が続きました。そして2次審査後に賞が取れないと、出費だけが増えて落胆しました。幸い、最終学年には受賞も増え、賞金や海外旅行などの副賞を手にすることができました。

 コンテストの期間以外の一年の3分の1の時期にはボランティアに明け暮れました。高校の授業が終わってから、活動拠点の都市に自転車で12キロ移動。そうなると1日の走行距離は56キロになります。それでも、活動目的に惹かれ、毎日のように通いました。私が小学生の時に参加したような合宿を企画し、運営する手伝いをしていました。自分も合宿のおかげで人生が変わったので、そこに携わることは楽しく、喜びでした。素晴らしいチームと先輩や友人たちとの出会いもありました。自分のためでなく、他の人や地域・社会のために、素で燃えている先輩たちが、大人びて見えました。その外見を超えた内面の格好良さに憧れました。家族は、バトミントンの部活をしているから帰りが遅いと思っていたようです。「遅くなったら、学校を出る前に電話するように」と言われていたので、学校周辺まで帰ると電話していました。そうすると父か母が途中まで迎えに来てくれて合流しました。それは本当にありがたいことでした。
 ところが、その活動の事がとうとう明らかになる時がやってきました。ある週末、私は、そのチームの友人の家まで、片道100キロを自転車で往復する計画を立てました。地図上で測った距離は100キロほどでした。時速10キロで進めば、10時間で到着です。真夜中の12時に出発し、24時間後に家に到着するという強行プランでした。しかし田舎の道は真っ暗で街灯もなく、山の中は恐怖の闇に包まれていました。さらに私は重大な計算ミスをしていました。地図上で100キロでも、それは平面上の距離で、実際には峠や山をいくつも越えなければならなかったのです。上り坂は時速3キロほどにスピードが落ちて全く進めません。汗だけがダラダラと流れます。後悔しましたが、山奥は怖くて止まることも引き返すこともできず、進むしかありませんでした。
 ところが計算ミスがもう一つありました。そのおかげで何とか予定どうり進むことができました。それは下り坂の加速です。長い下り坂は、加速がすごくて、低速の車を追い越すことすらありました。車のドライバーの人たちは、隣を自伝車が走っていくのを見ると唖然としていました。最初は早すぎてブレーキをかけていましたが、ブレーキが壊れそうです。スピードに慣れてくるとここで時間を取り戻さなければ、とスピード全開で進みました。いくつも山を超えて、とうとう友人の家に着くと、昼食を準備して待っていてくれました。
 私は、行きの山中で暗闇の恐怖を味わったので、1時間ほどするとすぐに帰りました。幸運にも予定どうり進みましたが、23時ごろ、あと15キロの地点で自転車のタイヤがパンクしてしまいました。競輪のような自転車でもなかったので、タイヤの凹凸もなくなっていました。スタンドで空気を入れてもらうと、奇跡的に乗れました。しかしあと10キロの地点で、また乗れなくなりました。次のスタンドで空気入れて欲しいと頼むと、そこには空気入れがありませんでした。
 しかし、スタンドのお兄さんがとても親切で、自転車を小型トラックに乗せて送ってくれました。でも勤務中にあまり遠くまで送ってもらうのは申し訳ないと思い、家の2キロ手前で降ろしてもらいました。ここまでくれば、家も近くて歩いても安心だ。と思ったのです。ところが、なぜかタイヤがもとに戻っていました。そして家の50メートル前まで、乗ることが出来たのです。奇跡の連続で、神の導きを感じずにはいられませんでした。到着するとすぐに全身に、筋肉痛を和らげるスプレーをしました。ところがスプレーの冷却効果が身体中を駆け巡り、恐ろしい寒気で死にそうな状態になりました。
 私はもしかしたら過去の時代にキリスト教かどこか宗教の伝導者として生まれていたかもしれません。この時の友人の家の訪問も、チームのメンバーで結束しなければならないと思って、出かけました。また、自分の尊敬する先輩たちも、自転車で訪問をするという活動を活発にしていました。しかも学校の制服で行くというのが伝統でした。今の高校生の子たちほどではありませんが、膝上くらいにスカートの丈を切って短くする時代でした。私は、スカートの下にショート丈のレギンスを履きました。友達は私が100キロもある距離を、制服を着て自転車でやってきたので、本当に驚いていました。ところが、翌朝、スプレーのせいで体調が優れませんでした。挙げ句の果てに、母にどこに出かけていたのか問い詰められることになり、バレてしいました。そして活動を控えるようにと言われました。
 
03. 学生の時に撒かれた“運命の種“とパリの魔法
 高校を卒業し、専門学校に入るとコンテストや課題・アルバイトの合間を見つけてイベントや合宿の運営のボランティアをしました。規模が大きくなると責任ものしかかり大変でしたが、集まる人たちが素晴らしく本当に充実しました。子供思いのお母さんや、教育熱心なお父さん、おじいちゃんやおばあちゃんの年配の方々の協力も得て会議を進め、運営をします。愛情と創造性あふれる素晴らしい方々が力になってくださり、本当に貴重な経験をさせていただきました。子供達の合宿は、わずか数日でも、まるで変身するように成長していく姿を見る事ができました。ファッションやデザインも好きでしたが、ボランティアにはそれとは別の心の輝きがありました。友達はみんな彼氏が出来る年頃でしたが、いつも慌しく何かしている私には無縁にも思えました。しかし神様は、15年後に向けた小さなプレゼントをくれました。
 ある時、数百名の小学生の合宿の運営に携わりました。合宿の最後に、子供達は自分の夢を書きました。合宿が終了し、私はみんなを見送っていました。一人の男の子がいて、どんな夢を書いたのか聞くと、彼は自分の書いた夢を見せてくれました。「テレビに出る仕事をする」というようなことが書かれていました。なぜか私は、これは本当に実現するという強い確信が込み上げました。一緒に運営していた友達に言うと、彼女は「〇〇!〇〇!」とある芸能事務所の名前を挙げました。私は彼の夢の書かれたカードの右上に、「〇〇事務所」「履歴書」と書き、お母さんに教えてもらって履歴書を書き、この事務所に送るように伝えました。
 数年後、いつものように、今までの参加者に次の合宿の案内の電話をしていました。その中で、電話をするとなぜか長話になる子がいました。しかし住んでいるのが関東方面なので、合宿に参加するには、新幹線で2時間くらいかかります。なので、「ちょっと遠いから難しいね。」ということになりました。それは夢を教えてくれた男の子でしたが、私はその子だと気が付きませんでした。その後、彼は中学生くらいになっていて、中学の合宿の案内の電話をしました。「彼は仕事が忙しいから行けない」と言いました。その頃すでに、彼は夢の階段を駆け上っていたようです。そして15年後、思いがけない再会が待っているとは想像もしていませんでした。

 私は、専門学校の卒業後に、フランスに行きたいと思って、週に一度、フランス語を勉強していました。最終学年になる前の春休みに、1ヶ月語学留学をしたいと思い、準備していました。丁度20歳の時です。「初めてなのに、一人で行くなんて!」と母に止められて落ち込んでいると、姉がなだめてくれました。姉は中国語を勉強し、大学の時、中国に留学していました。さらに、フランス語を一緒に習っていた先輩が、すでにパリに住んでいたので連絡していました。タイミングよく電話してくれ、「空港まで迎えに行ってあげるから大大丈。」と言ってくれました。その後、やっと母も応援してくれました。家の仕事を手伝ってアルバイトしました。また成人式に着る着物を買わず、姉のものを着ることにしました。その分として母が準備してくれていたお金を合わせて1ヶ月、語学留学をしました。
初めての海外でパリに到着したのは、夜でした。町中の街頭に照らされた建物の彫刻が、まるで自分に迫ってくるのではないか?と思うほど、美しく生き生きして見えました。その日は先輩のアパートに泊めてもらいました。私は興奮のあまりベットに入っても、何時間も眠れませんでした。私はいつも、横になったら30秒以内に眠ってしまうような人間でした。しかしパリの美しさは、私を眠らせませんでした。そして、過去にフランスに生きていた時代があったのではないかとも感じました。食事の味覚がとても合ったのと、初めて訪れたのに懐かしさも感じたのです。
 毎日、午前に語学学校に通い、午後は美術館などを見学しました。語学学校では、1ヶ月で、“自分が全く出来ない“ということだけがわかりました。イタリア人や、仏文科の大学でしっかり勉強してきた日本人は、すぐに上級クラスに上がっていきました。早々と挫折しましたが、「自分はフランスで生きていくことが決定したわけじゃない。」「悩んで時間を無駄にするのはやめよう。」と開き直り、モードやアートに親しむ時間を楽しみました。ホームステイ先は16区の高級住宅街のマダムの家でした。近くには、ブローニュの森があり、野うさぎがたくさんいました。自然の空気も吸いながら味わった歴史的な芸術との出会い。それは私の人生の道筋に大きな影響を与えました。
そして帰国の1週間前に語学学校で知り合った日本人の友達に誘われ、ディスコに行きました。それまでの私の人生は作品制作かボランティア、学校の課題かフランス語の勉強で敷き詰められていたので、初めての体験でした。ダンスの経験もなかったので、場違いの場所に飛び込んだような気もしました。しかし、友達のフォローやモデルのスカウトにあい、何とか溶け込みました。少し慣れてきた頃に、近くで踊っていた男の子と目が合い、しばらく一緒に踊りました。スローな音楽になると、彼は静かにキスをしました。

 私は子供の頃から男の子が苦手で、高校も女子校だったため、誰かと付き合った経験もありませんでした。私は固まって動けなるはずでしたが、彼のユーモアや優しさが、その緊張を解きほぐしました。生まれて初めて、ダンスという言葉以外のコミュニケーションが存在することを知りました。夢だろうか?と思っていましたが、彼が私を外に連れ出そうとした時、現実に戻りました。友達がいるからと断って別れました。とても名残惜しく、受け取った指輪を返すような気持ちでした。私の人生にはなかったキラキラした経験は、とても印象的でした。しかし、日本に帰るとそんなロマンスは消え去り、またいつもの日常に戻ってしまいました。
 
04. 仕事の自信喪失を抜け出し、サナギが蝶々になるまで
 フランスでの芸術体験は絶大でしたが、自分の語学の挫折によって、仕事は無理だと思いました。そして国内で就職をしました。まだ就職難が始まる前の時期だったので、面接を受けた1社目の第一希望の会社が内定しました。学校の先生には東京に行かないか?と言われましたが、当時、父の体調が良くなかったので、地元の会社を選びました。入社すると、ドレスのブランドのデザイナーのアシスタンントをさせていただきました。仕事のできるチーフにとって、当時の私は、足手纏いになりました。仕事が出来ないことが辛くて、毎日トイレで泣いていました。小さいの頃の自分に戻ったような、自信喪失を経験しました。しかし会社の人たちが、本当にいい人ばかりで、それが唯一の救いでした。週に一度、会社のバレボールチームの練習に参加するのも楽しみでした。
 私が近くにいるだけで、チーフの機嫌が悪くなるようにすら思えました。ボランティアや宗教で学んだ事から「最終的には“愛“だ」と信じ、とにかくどんな時もチーフや先輩たちの仕事を優先して進めました。そうすると自分の仕事に取り掛かるのは、いつも終了のチャイムが鳴った後でした。一つ上の先輩が、とても味のある人柄の優しい方で、「伊藤さん、これからが、私たちの時間ですよねー。」と寄り添ってくれました。ある日チーフが、「昨日、全然寝てなくて・・・」とつらそうでした。「仮眠室で休んでください。起こしに行きます。」と伝えました。当時、会社ではお昼と接客時以外にコーヒーを飲むことは禁止でした。そこで私は、コーヒーを荷物の段ボールの中に隠して運び、チーフを起こしました。「これを飲んでから戻ってきてください。」と伝えました。
 その後、チーフがホームパーティーを開いてくれました。吹き抜けのモダンでセンスのいいリビングにみんなで集まりました。その時に、チーフは「この子。本当に優しいの」と私がコーヒーをこっそり運んだ話をし、「実は当時、離婚の問題で辛い時だった。コーヒを飲みながら泣いたんだ。」と、打ち明けてくれました。それ以来、私はチーフと打ち解け合うことができました。
 チーフはとても思い切りのいい人でした。入社時から、アシスタントの私にドレスのデザインをさせてくれたのです。しかし若輩者の私が、先輩のパタンナーさんたちにモデルを形にしてもらうのは大変でした。さらにそのチェックをしなければならないのは何よりもプレッシャーでした。チーフがいてくれる時は、守ってくれました。しかし一人の時は大変です。自分のデザインしたイメージと違うという事を恐る恐る伝えると、「会話が通じない。」「何がしたいのかわからない。」と言われて仕事が止まってしまいます。ある日、ある先輩のチェックの時に、私が泣いているのを事業部長に見られてしまいました。その後、その先輩は子会社に移動になってしまいました。私のせいではないかと、気にせずにはいられませんでした。そこで私は、仕事が終わると、卒業した専門学校の夜間クラスに通い、パターンやドレーピングの上級技術をマスターしました。少しづつ何を変えて欲しいのかを具体的に伝えたり、説明することが出来るようになりました。

 フランスを諦めた私にプレゼントがやってきました。卒業制作で大賞をいただいた時の副賞が、学校が企画するヨーロッパ1周旅行だったのです。学校が会社に頼んでくれ、有給休暇を使って行かせてもらえる事になりました。フランス以外の国を訪れるのは初めてで、ローマのバチカンの天井画は衝撃的でした。ガイドさんの話では、レオナルド・ダビンチが、まだ若い頃に制作していたということでした。それが当時の私と同じ年齢だと知り、頭を殴られたようなショックを受けました。自分はこんな生き方をしていていいのだろうか?と真剣に自分の人生を省みました。その話をすると、ある先輩に、「ダビンチの人生と自分の人生を真面目に比較するなんて。」と驚かれました。確かに今思えば、恐れ知らずで傲慢でした。その旅行にはもう一つプレゼントがありました。同じツアーに参加していた後輩の男の子との出会いでした。デザインやクリエーションの話で意気投合し、私は生まれて初めて彼と付き合うことになりました。
 会社の仕事は、半年耐え続けると何とか慣れてきて、2年目にはドレスブランドを一人で担当させて頂く事になりました。丁度そのブランドが低迷していた後だったので、流れに乗ると倍の勢いで成長しました。先輩のMDや上司、パタンナーさんなどのメンバーに恵まれていた事が最大の幸運でした。仕事が忙しく、休日や深夜まで会社にいることも日常でした。MDの先輩が、仕事の終了時間を過ぎると、残業パンをご馳走してくれました。近くのパン屋さんに買いに行き、第二ラウンドの開始です。終電を過ぎると、先輩が車で家まで送ってくれました。先輩の家は会社まで徒歩5分なのに、車で1時間もかかる私の家まで送ってもらうのは、申し訳なく思いました。私はとうとう会社の近くにアパートを借りました。付き合っていた彼とはすれ違いが増えて、残念ながら別れました。

 ドレスのデザインの経験を積めば積むほど、またフランスに行き、オートクチュールの技術を学びたいという気持ちが高まりました。卒業した学校で、毎年一人、留学の斡旋が行われていました。卒業生も応募できると知り、面接を受けると選考されました。そして会社では、3年目に担当していたブランドが、百貨店の参入に成功しました。百貨店の参入は、会社の上司や先輩、みんなの夢だったので、本当に嬉しく思いました。やっと少しは恩返しできたかなと思えて、フランスに行く準備を始めました。
 
05. 踏みとどまった結婚と駆け上がった階段
 仕事面は順調にも見えましたが、プライベートでは大きな問題を抱えていました。それは二人目に付き合った人に妻子がいて、私は不倫をしている状態だった事です。既婚者や彼女がいる人は、私にとって恋愛対象外だったので、友人にしかなりえないと思っていました。友人として、何とか夫婦や家族の関係を取り戻してもらいたいと思っていました。ところが友人のまま、3ヶ月、半年と過ぎると、情が湧いてしまいました。1年以上過ぎて、真剣に結婚を考えるほどになってしまいました。母に「結婚を考えている人がいる」と、その人に妻子がいることも話しました。母は、「人を不幸にするような子にだけは、育てたつもりはなかった」と言いました。
 母の言葉で、「人を不幸にするような行動をしてきた」ということを思い知り、ショックを受けました。今まで人のためにしてきたことも、全てがこの現実によって裏返しとなるようにも思えました。どれほど傷つけていたかを思うと、自分の存在意義を肯定することができず苦しみました。ある日、橋の上で河に飛び込もうとしていました。その時に、「これからは人を幸福にするために生きよう」ということを心に決め、踏みとどまりました。相手に別れることを伝えると、それから1ヶ月以上、毎日手紙が届きました。とうとう、手紙もやめてほしいとお願いし、関係を断ちました。とても苦しい日々でした。
 それまで合宿などのボランティアをしていた宗教では、数年前に講師の資格もいただいていました。しかし、「こんな自分のまま講師をすることは出来ない。」と思い、自分のしてきた過ちを多くの人の前で打ち明け、講師や役職も全て辞退しました。しかし、活動していたメンバーは、いつもと変わらないまま接してくれました。フランスに発つ時も、空港まで見送りに来てくれました。たとえ会う機会が少なくなっても、永遠の仲間だと感じ、泣きながら旅立ちました。
 フランスに旅立つ前に会社を辞めた後、しばらく家の手伝いをしていました。高校くらいからは、手伝いをするとパートさんと同じくらいの報酬がもらえました。私は、他の仕事を経験したことで、農業の良さも少しわかるようになりました。トマトのハウス栽培をしていたので、ハウスのメンテナンスやビニールの張り替えも手伝いました。仕事を終えて、少年のように屋根の上で寝っ転がって、空を眺めるのは気持ちの良い一時でした。何よりも、家族が喜んでくれるのが嬉しく、日本を離れる前にできる限りのことをしたいと思いました。

 自分のしてきた不倫については、なかなか整理できませんでした。考えると、ただ自分を責めるだけになって、冷静に反省ができなかったのです。そして今までの宗教での、自分の信仰の未熟さにも向き合わなければならなくなりました。そんな時、母が幸福の科学の集会に誘ってくれました。数年前から、母と姉が学んでいましたが、新興宗教で怪しいのではないかと感じていました。時々、大川総裁の講演のビデオや音声が聞こえてくると、あまりに情熱的で、絶叫されているところもあり、心配が募りました。しかし、それまでの宗教で、自分の信仰の限界を感じた時期だったので、行ってみることにしました。
 集まりが行われている家を訪問すると、自分の抱いていたイメージと全く違って、驚きました。とても暖かい雰囲気で、ごく自然だったのです。集まっている人たちは、飾らない自然体のまま、ありのままの個性が魅力になって光っているようでした。爽やかな愛が溢れていて、とても居心地のいい一時でした。それから妹が、「愛の原点」という大川総裁の本を「すごく泣ける」と言って勧めてくれました。少し前まで反抗期だった妹は、家出したりもして大変でした。本を読む姿もあまり見たことがなかったので、驚きました。妹はその後、姉妹の中で一番早く結婚し、子供も二人授かりました。ご主人が事業をしていた時は支え、立派なお母さんになりました。そして最近は手先の器用さを活かし、アクセサリーブランドを立ち上げました。
 
 妹の勧めてくれた「愛の原点」を読んでみると、本当に心が暖かくなり、涙が溢れました。真実のメッセージが心に響いてくるのです。私が不倫相手の家族に対してしていたことは、愛と全く反対のことだった。相手しか見えていなかった。と静かに振り返り、整理し始めました。私は、フランスに行く前に、幸福の科学の会員になりました。フランスの留学は、卒業した学校の校費留学だったので、学費は学校で準備されます。しかし、生活費は自分で何とかしなければなりませんでした。2年の滞在予定でしたが、私の貯金では、その資金はまかなえません。家族は反対していました。母と言い合いになり、ある日私は家を出ました。
 車に毛布を積み込み、家を出て南に向かいました。正直に考えると、フランスに行ってどんな成果を得られるのか?自分でもわかりませんでした。25歳になり、結婚をして家庭を持つべき時期です。本当に行くべきなのか?という気持ちも出てきます。ただ、面接で選ばれたから行こうとしているのではないか?とも思えます。私は車で知覧の特攻隊の記念館に行こうと、車を進めました。以前から先輩に勧められ、日本を離れる前にどうしても行きたいと思っていた場所でした。ただでさえ、フランス行きのお金が足りない状況だったので、有料の高速道路を使わないと決めました。そうなると60キロ程度のスピードしか出せません。夕方以降の京都や大阪の通勤のラッシュアワーには道路も混雑しました。
 広島で深夜を過ぎ、とうとう毛布にくるまって仮眠を取りました。二日目、なんとか関門海峡を越えて九州に入りました。ところが山道が多く、左右にハンドルを切って、かなりハードなドライビングをしなければなりません。運転は嫌いではありませんでしたが、ぐるぐる回りながら、ようやく山を一つ越える。というような状態です。流石に何日も家の仕事を手伝わないわけにいきません。自分の中で3日と決めていたので、熊本あたりでとうとう高速道路を使うことに決めました。すると道路は真っ直ぐ一直線で、数時間で鹿児島に着きました。シャワーを浴びたかったので、小さなホテルに泊まりました。三日目の明け方に出発し、知覧の記念館に到着しました。

 扉を開けた途端、壁一面に英霊の写真が敷き詰めらていました。まだ中学生くらいの少年のような写真もあります。爽やかな笑顔も見られ、ただただ涙が溢れました。多くの手紙が展示され、翻訳機もあり、日本人も外国人も泣いていました。広島の原爆記念館は、原爆の悲惨さが溢れていました。しかしここには、特攻で死にに行く若者たちの愛が溢れていました。「日本のために、行きます!」「お母さん!!」「日本の未来を守ります!」など、愛する人たちへの最後の手紙が、山のようにありました。手紙の言葉が、どんな内容であったとしても、ただ「愛」としか受け止められませんでした。なぜなら、彼らが日本のために、自分の命を捧げて亡くなったという現実が存在していたからです。どんなに想像しても、自分の体を爆弾にして敵地に突っ込んで行く。そんな事はなかなかイメージできません。その時の気持ちがこんなに優しく愛に溢れているとは・・・想像をはるかに越えた次元に、引き込まれたような感じでした。
 あまりの衝撃に、自分の生き方を反省せずにいられませんでした。自分がどれほど恵まれた時代に、恵まれた環境で、恵まれた人間関係の中で、生かされているか。と言うことを思い知りました。その愛に触れると、出来ない事など何もない。としか思えません。帰り道は高速を使うのはやめようと決めました。そして気がつくと、レーサーのようにアクセルとブレーキを使いこなしてハンドルを切っていました。いくつも山を越え、4日目の朝には家にたどり着きました。この時に、自分のためにフランスに行こうと考えるのはやめよう。何か大いなる存在のために、そして多くの人のために自分の人生を捧げることを決意しました。自分の心境が変わると、家族の方も変わっていました。そして2年の約束で支援してもらうことになりました。
 
06. 美しさだけではなかったパリの魅力
 フランスに渡航すると、半年は語学に専念しようと考えていました。しかし、語学の苦手意識の強い私にとって、一日中語学を勉強することは苦痛でした。そこで午前は語学学校に行き、午後は日本人のデザイナーさんのアトリエで、手伝いをさせていただきました。無報酬でしたが、フランスに来て1ヶ月もしないうちに、仕事現場で手伝わせていただけたことは、貴重な経験でした。デザイナーさんは、長年、高田賢三さんのアシスタントをされていた方で、センスはもちろんユーモアのある素敵な方でした。様々な賢三さんとの仕事やパリコレクションのエピソードも聞かせていただきました。アシスタントの女性は、“アシスタントの鏡“と言えるような感性と合理性をバランスよく使いこなせる方でした。さらにパリのスマートな仕事の仕方など、本当に多くの学びがありました。
 アトリエには毎週金曜日に色々な人が集まる小さなパーティーがあったので、パリで活躍される様々な方との出会いもありました。クリスマスには、「自分は使わなくなったけど、まだ捨てるにはもったいないもの」のプレゼント交換会が恒例行事との事でした。私はその交換会を担当することになったので、友達とキャンドル付きのクジを作りました。キャンドルに火をつけると“運命“の番号がわかるという仕組みです。キャンドルが暖かな光とサプライズをもたらし、恒例のプレゼント交換会は大いに盛り上がりました。
 アトリエで出会うのは、モード関係の日本人が多かったのですが、パリの魅力を一段と輝かせてくれました。一緒にお手伝いをしていた女の子は、作業が手早く、料理も上手でした。日本食の材料が少ないパリでも、美味しい日本の料理をさっと作ってくれました。他にも、アトリエで出会った人たちには、パリ生活のアドバイスから、モードやアートの刺激を沢山頂きました。パリの街並みに街頭が灯る頃、そしてメトロの最終時間まで、時にはワイワイ。時にはしっとりと、クリエーションについて語り合う時間はとても有意義でした。デザイナーさんは、お手伝いの最後の日に素敵なサプライズをしてくれました。私が「いいな」と思っていたフォッフスのファーが肩についたワンショルダーのTシャツをプレゼントしてくださったのです。アトリエのブランドの商品の一つでした。私はお金をいただくより、その方が何倍も嬉しかったのです。デザイナーさんは、プレゼントのセンスも最高でした。
 
 パリでは本当に多くの素敵な人に出会いましたが、幸福の科学のパリで活動する方々との出会いは、一味違ったものでした。私は日本で会員になったものの、何もわからないままでした。しかし、母が連絡してくれ、パリの会員の方が声をかけてくださいました。個性あふれる素敵なメンバーが暖かく迎えてくださり、学びの機会も設けてくださいました。幸福の科学では、基本教義以外にも、様々な分野の方々の守護霊霊言やリーディングなども公開されていました。今では大川総裁の書籍だけでも3000冊以上発刊されており、一生かけても、学びきれないほどです。それだけ広がりも奥行きも深かったので、毎週の学びが楽しみでした。
 メンバーのみなさんは、一人一人の人生をストーリーとして語れるくらい、それぞれの才能や個性が光っていて、大好きになりました。特に年齢の近いメンバーとは、多くの時間を共にし、“魂の喜び“を感じました。“魂の喜び“とは何かというと、お互いの心の中を透明にして、“全部見せ合っている“ような状態で、語り合ったり、過ごせるような感じです。この人には、ここまでは話そう。などという気遣いは無しで、心の中を“全開“できる。ありのままに、心地よく過ごせる。そんな魂の開放感がありました。そして、支えられながら、様々なパリでの課題を乗り越え、体感するように真理を吸収していきました。
 みんなと一緒に伝道もしました。日本経済はバブル後の減速の名残はありましたが、それでも今よりかなり経済循環は良い時でした。フランスでは、日本人というだけで、憧れや、好印象を持ち、慕ってくれる人が多かったです。セミナーなどに友達を誘うと、興味を持って来てくれました。街頭で小冊子も配りました。私は学生の頃、アルバイトで、食品の試食販売をしていた経験があり、少しコツがあると感じていました。それは、人は無理やり勧めると去っていきますが、人だかりができていていい雰囲気だと、自ら集まってくる。という事です。そのためには、「これ、本当に美味しいんですよ!」という明るい空気と、「もう少し欲しいな」と思ってもらえる、“さりげない控えめ感“や謙虚さです。
 ところがフランスではそんなコツは必要ありませんでした。そもそも、フランスでは、無料で何かが街中で配られている。という文化がなかったので、みんな喜んで受け取ってくれます。とにかく大勢の人が移動する駅のメイン通路などに立てば、手を差し出してくれる人に、マシンのようにわたせば、あっという間に何千部でも配ることができました。むしろ、手が追いつかずに待たせてしまうこともありました。その後、小冊子に挟んだチラシを見て、何人かの方が、セミナーに来てくれました。ところが、そんなフランスでしたが、公式に新しい宗教は「セクト」として、カルト宗教の認定を受けていました。その中に、幸福の科学も含まれていました。インターネット上で、そうしたネガティブな情報も出回っていたので、期待したほど簡単に伝道は進みませんでした。

 私は日本に一時帰国すると、幸福の科学の精舎で研修を受けました。研修は、自分で本を読んで学ぶのとは全く違いました。宗教施設の精妙な磁場の中で、真理を心や魂で受け止めていく体験です。それは頭脳知を超えて、悟性による認識力を劇的に高めました。例えると、地上で自分の視界に映るものしか見えなかったのが、上空や宇宙から眺めるような、別次元の認識に変わりました。なぜ人が生まれてくるのか?死んだらどうなるのか?普通に生きていたら、考えないような、地上以外の世界なども認識していくと、高級霊や神様の視点が理解できるようになっていきます。高級霊や神様の視点に立つと、悩みや問題の解決が圧倒的に早くなります。わずか数日でも、研修の体験は、数年や数十年に及ぶ時を超えるような学びの深さがありました。

 語学学校を終えて、いよいよ専門学校の授業がスタートしました。しかし、フランス語が未熟で、先生の言っていることがわかりません。幸いクラスメイトに何人か日本人がいたので、教えてもらう事が出来ました。また日本でドレーピングの夜間クラスにも通っていたので、実技の方は見れば理解出来ました。ファッションの専門用語だけは、完璧にしようと決め、毎朝友達と単語テストをしました。点数が悪かったら、相手に“アンジェリーナのモンブランをご馳走する“。というルールだったので、必死で覚えました。友達は記憶力が良く、私はそうではなかったので、食事中も、通学途中も、入浴中も覚え続けました。しかし、今も5回以上、私が“モンブランをご馳走する約束“が残っています。
 クラスには日本人が10名ほどで、多い時期でした。言葉がわからないのでみんなで教えあったりもして、仲も良くなりました。私はいつもフランス語を教わる側でしたが、技術に関しては日本で勉強していたので、交換することができました。日常の話に加え、パリ生活の困難や、進路のことなどを相談し、本当に支えられました。時々誰かの家に集まって日本食を食べたりもしました。みんなの頑張りに勇気付けられる日々でした。特に印象的だったのは、パリコレの会場にショーを見に行くことです。入場口に、並んでいると、招待状を持っていなくても、空席があると入れてもらえることがありました。あるとき、美大のホールを会場にしたハイブランドのショーがありました。そこは、招待状がないと残念ながら入場できませんでした。しかし、大学の内部を知っている子の手引きで、吹き抜けのホールの上の階に回り込むことができました。そして上からショーを見たのですが、何とも言えない興奮と感動がありました。しかしまだ当時は、長くパリにいて、まさか自分がショーをすることになるとは、思ってもいませんでした。

 日本人とだけ話しているとフランス語が上達しないというのは感じていました。しかし幸い、昼食はインドネシアと台湾の女の子と食べていました。二人とも私よりはフランス語が話せたので、フランス語を話す機会は持てました。同じアジアでも、国が違うと文化や習慣などの違いがあり、新鮮でした。フランス語が話せなくて辛かった時に、台湾人の女の子が、家に呼んでくれました。そして台湾のネットで流れていた日本のドラマを見せてくれ、本当に感動しました。インドネシア人の子が作ってくれた“ミゴリン“や“ナシゴレン“は、日本の親子丼に似ていました。日本の懐かしさも感じ、美味しくて本当に嬉しく思いました。
 それ以外にも接する中で、いろいろな優しさに触れました。そしてアジア人に共通するのは相手に対する“思いやりのタイプ“でした。フランス人やその他の国の人にも、もちろん思いやりはあります。しかし、どんな思いやりを、どんな時に、どんな風に示すかという感覚が、アジア人同士、どこか似ているように思いました。もしかしたらマンガやドラマの影響もあるかもしれません。
 専門学校の授業は、朝から夜まで徹底して1つの科目を進めます。半年間、しっかり立体裁断を学ぶ事ができました。最終試験は、様々なメゾン(ブランド)の現場のシェフたちが集まり、審査します。私は幸い高得点をいただき、いくつかの研修先をご紹介いただけました。研修を終えると、家族との約束の2年が近づいてきます。私は、パリに残りたい気持ちが強く、ワーキングホリディのビザを取得ました。しかし収入が無ければ帰国しなければなりません。ドレスのデザイナーさんのアトリエのパターンとモデル制作を手伝ったり、オートクチュールのアトリエなどで、パリコレのモデル制作にも携わりました。パリコレの時期が終わると、洋服のお直し・フランス人講師の刺繍のレッスンの通訳・パタンナーのドレーピングやモデル制作・ドレスのオーダーなど・・・とにかくできる事は全て引き受け、フリーランスで仕事をしました。

 プライベートでは数人のフランス人と付き合いましたが、結婚には至りませんでした。ビザのために結婚するということも考えられませんでした。幸い友人には恵まれ、日本に帰国するときに機内で出会った友達が、フランスに戻ってからも仲良くしてくれました。彼は日本で企業研修中の恋人に会いに行くところでした。私の人生は環境が変わることが多く、そのたびに、友人も変わりました。しかし彼らは、保育園の時から大人になっても、パリにいることがほとんどでした。その長年、気心の知れた家族のような存在は、日本人の私を受け入れ、溶け込ませてくれました。クリスマスや誕生日、別荘でのバカンスなどの行事だけでなく、日常の集まりや、引っ越し、ショーのモデルなど、本当に支えられました。パリを離れても、フランスに出張になると再会しました。久しぶりでしたが、会えなかった時間が消えたような気がしました。
 
07. 夢の詰まったアトリエから生まれたファッションショーと甘酸っぱい未来
 ワーキングホリデイの1年を終えると、真剣に労働ビザの習得を考えました。アーティストビザなども挑戦しましたが、取得できませんでした。そんな時、転機が訪れました。それは、幸福の科学の経営の研修を受けた時のことです。過去の自分を一旦、白紙に戻して、今回の人生のミッションを見つめます。魂の奥に眠っている自分の今回の人生とは?これまでに魂が打ち震えた経験を思い出してみると、子供の頃、合宿に参加して走るようになり病気が治ったこと。それがきっかけで宗教のボランティア活動をしてきたこと。美しい自然の中で感じる静かな感動。クリエーションに完全に没頭している時の充実感。ヨーロッパで“神の創造“とも言えるような美や芸術に触れた時の衝撃。などがありました。その時に、新しいクリエイティブを生み出す芸術斡旋事業をしたいという想いが、マグマのように溢れてきました。
 神の世界には無限のアイデアが眠っていると言われています。私は瞑想が好きで、それを感じ取ったり、インスピレーションとして受け取りやすい体質でもありました。そしてこうした発想や構想力を生かして、新文明の創造に貢献したいと思いました。それが魂の奥から溢れてきて、具体的なビジョンも見えてきました。かねてより描いていた、芸術のオリンピックのようなものも実現したいと思いました。早速、事業構想を描き、プランニングしました。起業は、自分がすると想像したこともありませんでした。日本で、ボランティアメンバーの友達が、「私が未来に社長をしている夢を見た。」と言っていたことがありましたが、その時もありえないと笑っていました。しかし、本当のミッションを感じた時、今までの人生で一度も体験したことのなかった幸福感と、ワクワクした気持ちが溢れてきました。最も鮮烈な記憶に刻まれたのは、瞑想の時に見たビジョンです。霊界の開発者、芸術家、発明家、技術者が、大きな広場に集まってきていました。ガヤガヤとみんなが本当に楽しみにしている様子。そして何よりも主の期待感が魂の奥まで響いてきました。圧倒されながら、一つも忘れないように、全てのインスピレーションを書き留めました。
 家に帰ると、現実世界も大きく変わっていました。まず、家族は、いつも泣き虫だった私が起業するなどと言ったら、無理だと笑うのではないかと思っていました。しかし、私はもう進めることが当たり前のような感覚になっていました。なんと両親は、「自分たちはそういう経験がないから、商売をしているおじさんに相談するように。」と、言ってくれました。おじさんも背中を押してくれ、母の従兄弟の税理士事務所の所長さんが、部下を紹介してくださいました。姉は、私が企業名を考えていたらアイデアをくれ、「それがいい!!」とすぐに決めました。10日後には会社を設立し銀行口座や印鑑など、全ての手続きは終わっていました。
 環境も変わりました。協力者が現れ、会社のウェブサイトの制作や、ドレス制作を手伝ってくれる人が出てきました。パリの商工会議所の企業支援プログラムでも学び、フランス語でも事業計画を立てました。担当してくれた女性が、本当に根気よく親切な方でした。事業計画の説明をするだけでなく、私がやりたいことを伝えると、文章化してくれました。それを添えて申請すると、念願の就労ビザも取得できました。そしてオートクチュールのブランドを立ち上げました。引っ越しをし、数年前に「いつか、この近辺にアトリエを持ちたいな・・・。」と考えていた8区に物件を見つけました。そしてアベニューモンテーニュのシャネルのお店の裏側のアトリエに引っ越すことになりました。

 私はオートクチュールのブランドのコレクションを、アートを交えたファッションショー形式で発表することを決めました。将来的には、芸術斡旋や、芸術のオリンピックを目指していたからです。専門学校を卒業したばかりの一番下の妹と、その友達がパリに手伝いに来てくれました。小さなアトリエでしたが、私は技術を教えることを惜しまなかったので、スタージュ生には恵まれました。よくフランスの専門学校や高校からも、研修をしたいという子が集まってくれました。先生も協力くださり、私に代わってフランス語の書類を書いて下さいました。日本人で、「パリに来て何かしたい。」と活動の機会を探している人たちも集まってくれました。小さなアトリエは人も夢も一杯に溢れいきました。みんなの食事を準備するのは大変でしたが、パスタなどのシンプルなものでも、喜んで食べてくれました。
 資金は限られていたので、ショーのステージなどの設営にかける費用はありません。ホテルのワンフロアだけでショーを行うのは困難でした。モデルの着替えをするバックステージがなかったのです。ある日、工事現場で板が捨てられていました。この板でアトリエの棚ができたらいいな。と思いました。現場のおじさんに捨てるものか聞いてみると、なんと、「棚を作ってあげる」と言ってくれました。おじさんは早朝の仕事前にやってきて、見事に棚を作り上げてくれました。感激し、お礼に日本の緑茶をプレゼントしました。まるでシンデレラに登場する魔法使いのおばあさんのようでした。
 おじさんに、ショーのバックステージを仕切る壁を作るとしたらどのくらいの費用がかかるのか相談してみました。すると「私が作ってあげよう。無償でいい。」と言ってくれました。そして工事現場のポールを持ってきて組み立て、そこにシートをかけて、あっという間に見事な壁を設営してくれました。またもや魔法を見せられたような気持ちになりました。ショーでは、カメラマンの方から紹介いただいた新人モデルさん。そしてそれ以外の20名近くは、地下鉄や街中で、全員スカウトしました。生地や素材の調達だけでなく、スーパーに行くような外出の行き帰りは、全てスカウトの時間です。背が高く細い女の子を見つけると、ショーの招待状を見せて説明しました。中には中学生だった子もいましたが、お母さんも許可証の準備を手伝ってくださいました。無報酬でしたが、みんな試着のフィッティングも、当日も時間通りに集まってくれました。
 ヘアメイクさんも募集し、アトリエはメイクルームに様変わりしました。会場はアトリエの近くだったので、メイクが終わったら会場に集まってもらいました。音大生の子達がピアノやサックスの生演奏を披露してくれました。パティシエの女の子が、飴細工でドレスのミニチュアを作ってくれました。LEDの日本の企業がライトを提供してくださいました。そのおかげで、私たちは美しい光の演出の中で、光のドレスを発表することができました。ファッションショーの運営は初めてだったので、課題は沢山ありましたが、素晴らしいメンバーが奇跡のように集まってくれ、開催することができました。

 みんなの喜びの笑顔が消えるような問題も起きました。日本からお越しいただいたウェディングドレスメーカーの社長夫妻がいらっしゃいました。私たちにとって、1番の顧客となる方でもありました。しかし、ショーの後にパーティーがあったという嘘を伝えられてしまいました。ご夫妻は、自分達だけ招待されなかったと知らされ、気を悪くされました。私はそんな事も知らず、お礼のメールや、販売のご案内をしていましたが、反応がありません。何年か後にその真実を知り、ショックを受けました。ショーを開催したにもかかわらず一着も販売できなかった事も重くのしかかりました。
 妹と友達とパリで仕事ができたらという希望は消えていきました。妹は私と10歳離れていました。妹にとって私は、こうと決めたら頑固で、面倒臭い姉であったかもしれません。しかし私にとっては、赤ちゃんの時から面倒を見ていて、可愛くて仕方ないのです。合宿の帰りに、マクドナルドに連れて行くと、それだけでも本当に嬉しそうに喜んでくれました。生活を切り詰めて頑張り、パリで一緒に仕事をすることも考えました。しかし妹には紐じい思いをさせたくないと思い、日本の先輩の会社を紹介しました。日本に帰国した時、一緒に会いに行くと、先輩は「今、人は足りてるからな・・・。」と言っていたにもかかわらず、最後に「妹の書いたデザイン画を見てやってほしい。」とお願いすると、「少し来てみる?」と言ってくれ、最終的には雇ってくださいました。本当に感謝しかありませんでした。
 
08. 思いがけず頂いたオートクチュールコレクションへの道とレッドカーペット
 パリに戻ると、妹を少しでも早く呼べるようにと、頑張りました。またスタージュ生(研修生)が集まってきてくれました。初めてのショーは、パリコレの時期ではなく、4月に行いました。次は、パリコレクションの期間中にやろうと決め、準備を始めました。次もアートとファッションのイベントの路線を目指し、幸福の科学のメンバーの協力も頂高と思っていました。ヨーロッパの芸術の興隆期には、宗教芸術の存在がありました。「宗教的真理はどの分野の根幹をも導くものである」ということは、普遍的な摂理でもあると考えていました。メンバーの中には、音楽や芸術関係の方もいました。それ以外にダンスチームとのコラボレーションのお話もいただき、コンセプトや企画の打ち合わせをしました。ダンスチームはパリで活躍する、日本人と、色々な国籍の方のチームです。
 ところが、その後、ダンチームの方々は、ブランドとのコラボレーションは希望しますが、宗教とは関わりを持ちたくないということでした。宗教に対する誤解や偏見もあるようでした。そこで、このブランドのコンセプト自体も、宗教的な美を求めていることを伝えました。最終的には、互いの意志を尊重し合いました。名残惜しい気持ちもありましたが、ダンスチームの皆さんは去っていかれました。その後、ショーの企画を詰め、準備を進めましたが、今度はアトリエの内部でも似たことが起きました。協力者の二人のフランス人の子たちが、宗教を全面に出すのは良くないと思う。という事でした。私たちは、このコンセプトでブランドもショーも進めることを決めました。もしそれを受け入れてもらえるなら協力してほしい。と伝えました。その日、二人はアトリエを出ていきました。私は祈り、それぞれにとっての最良の導きがいただけるよう、主にゆだねました。すると翌日、二人はいつものようにやってきて、仕事を進めてくれました。周囲のメンバーもほっとして、私たちのコンセプトは、ますます揺るぎないものになっていきました。
 ダンスは、アトリエのスタージュ生に経験者のダンサーがいました。彼女にお願いすることになりました。前回のようにモデルスカウトをし、モデルさんに20名ほど。前回参加してくれた子も、何人も来てくれて嬉しく思いました。アートホールはアールヌーボーの建築で、中央に螺旋階段のあるクラッシックな建物でした。階段をランウェイのコースにし、モデルやダンサーが2階から1階に舞い降りるという設定でした。

 前日はみんなアトリエで寝ずに作業となりました。そんな中、みんなの疲れが吹き飛ぶようなサプライズがありました。ラストのランウェイで男性モデルも登場してもらう予定でした。フランス人の友達が友人に声をかけてくれ、フィティングに来てくれました。深夜に、2メートルほどの長身の彼がバイクで現れ、アトリエは騒然となりました。モデル以上に背も高く小さく整った顔立ちに、日本人の女の子たちが釘付けになりました。試着してサイズの調整をすると、彼は去っていきました。みんなの完成に向けてのエネルギーが一気に高まりました。私は紹介してくれた友達にも、モデルの彼にも感謝しました。みんなは明け方のメトロで家に帰り、数時間後の集合時間に再び集まりました。少しでも休んでもらいたかったのですが、寝ずにみんなのサンドイッチを作って持ってきてくれた子がいました。感激しながら、夜のショーに向けて準備を進めました。
 スタッフの女の子が引き受けてくれたオープニングのソロのダンスはとても美しく、会場は静まりました。本当に彼女にお願いできて良かったと思いました。そして音楽の流れに合わせて詩の朗読があり、ショーが始まりました。会場は何とも言えない空気に包まれました。神の愛と美の表現を目指しましたが、それは想像以上にあたたかく、全てを包んでくれました。アトリエで製作した多くのアクセサリーも半分ほど売れました。ドリンクとシンプルなケータリングを準備しただけでしたが、いつまでも会場は一杯で、片付けを始めることができませんでした。
 大型のエレベーターでモデルさんたちが戻ってくると、ドアが開いた瞬間に「フェリシタッション!!(おめでとう)」と叫んで拍手で飛び出してきて、スタッフ全員にサプライズをしてくれました。「お疲れ様!」と言う私たち声は、完全に遮られました。みんなが互いにハグやビズをしてまわりました。もう、一体どうなってるのかわかりませんでした。ただ、みんなが充実感と喜びに溢れていて、観客もスタッフも感動していることは確かでした。
 前回のショーより、良くなりましたが、まだまだ課題はありました。特に広報が行き届かず、大きくメディアで取り上げられることはありませんでした。私自身も大きなミスをしてしまいました。幸福の科学のパリのリーダーでもある女性講師のメイクを指示することが出来ず、ノーメークでステージに出ることになってしまいました。彼女に、フランス語で詩の朗読をしていただくことになっていました。元々綺麗な方だったので、メイクなしでも観客は気づかなかったかもしれません。またご本人も何もなかったかのように、凛とした姿で朗読してくださいました。しかし、事前に担当者を決めるべきだったと自分のミスを悔いました。
 
 せっかくパリコレシーズンに行ったにも関わらず、メディアの露出もなく落胆しました。期間中には、インディーズブランドも含めると、パリでは膨大な数のショーが行われます。広報担当者もいないことも致命的でした。しかし、みんなの努力を無駄には出来ません。そこでメディアには、ショーの映像・写真と内容をまとめた、ブランドPRのメッセージをメールや手紙で送りました。すると、ファッションTVの広報ディレクターが連絡を下さいました。そして広告業界の世界の3大イベントとも言われるカンヌ広告際のエコプロジェクト参画のお話をいただきました。また、その1ヶ月前に行われるカンヌ映画祭の関係者も紹介してくださいました。そして私たちはフランス人の女優さんにドレスを提供をさせていただくことになりました。それだけでなく、セレブたちが立ち寄るスパに、衣装のレンタルスペースを設置させて頂けることになりました。
 女優さんのドレスは、パリで学生を終えた頃に、「いつか女優さんにレッドカーペットで着てもらいたい。」などと言って、製作していたものに決まりました。本当に現実になるとは思っていなかったので、驚きました。当日はドレスの着付けをし、レッドカーペットも歩かせていただき、緊張と感激が溢れました。女優さんが連れていってくださったパーティーにも、圧倒されました。今まで映画やドラマのスクリーンの中で見ていた俳優さん達が大勢いて、本当に華やかでした。また、カメラマンやプロデューサー、ディレクターなど、毎年映画祭で活躍する素晴らしいスペシャリストとの出会いもいただきました。そのおかげで、映画祭の舞台の表舞台と、舞台裏の仕事や動きを知ることができました。
 広告際ではエコロジーをテーマにイベントが行われました。プラダやケンゾーなど世界的デザイナーと共に選出いただき、私たちにとってはとても光栄でした。ショーでは各ブランドがエコをテーマにしたオリジナルサイクルを発表しました。私たちはオートクチュール刺繍を生かしたデザインにしました。自転車カバーとレインウエアが一体化したエコサイクルです。パーティーでは賢三さんの隣の席でした。賢三さんは、聞いていた通りのユーモアと思いやりのあるとても紳士的なパリジャンで、ただただ感激しました。広告際でも、様々な分野で活躍される一流の方々との出会いをいただき、感謝の想いで一杯でした。ここでも、ステージの表舞台と、背景やビジネスの動きを直に見ることができました。それは、その後の芸術イベントや斡旋事業の企画や構想を練る力になっていきました。翌年、パリにレンタルサイクルの“ベリヴ“が導入され、フランスは世界第一位のエコサイクル普及国となりました。

 それまでの事業を振り返ると、収益面が常に課題でした。オートクチュールのブランドを継続するためには安定した資金が必要だと感じました。スタージュ生(研修生)がいてくれることで、色々な作業は進みますが、ずっと無報酬というわけにもいきません。そして私たちはブランドライセンスの企画提案をすることにしました。もちろん、まだ高級ブランドのようなネームバリューのあるブランドではありません。そこで新しいエネルギーや、フレッシュなパワーのイメージを求める企業と、高級ブランドより低価格で、ライセンス提携しようと考えました。そのエネルギーが伝わるブランドのプレゼンテーションのブックを作りました。
 それは開いた瞬間に驚き、誰も見たことのないようなもの。私たちは3センチほどの厚みの、刺繍のカバーで出来た本を作りました。スイッチをONにしてブックを開けると、スパンコールやクリスタルの宝石のようなモチーフが出てきます。実際にクリスタルが輝くように、刺繍の後ろに12色のLEDを設置しました。太陽光に近い自然光は、透明感のある白っぽいカラーです。唯一無二の価値として、神の美を表現しました。ブックの側面には丸いガラスビーズを細かく刺繍し、シルクの繊細な素材を守ります。見た目は柔らかく繊細で、内部はしっかりした設計にしました。刺繍のクオリティにもこだわり、ミリ単位の細部にまでブランドのイメージや、ニュアンスを表現する。企画内容の透明感を際立たせました。
 企画内容はファッションだけでなくインテリアやテクノロジー、エコロジー、そして未来社会の到来を感じさせるような、多岐にわたるユニバーサルなライセンス提案でした。メンバーはクリエーション意欲のある日本人が多かったので、夜まで作業する日々でしたが、私は同じように終わるわけにはいきません。みんなが帰った後に、翌日のみんなの作業の段取りをし、早朝は一人の時間にすべきことを進めました。私は、父と同じように365日仕事をしていました。ただ幸い、手仕事には癒しの側面もあります。また、素材を買いに行ったり、美術館や展示会に行ってイメージやデザインのソースを集めたり、という事もありました。それは仕事であっても十分なリフレッシュのひとときになりました。

 完成すると宝物のように丁寧に包装し、送りました。しばらくすると、1部返送されてきました。手紙には丁寧に、ライセンス先は求めていないとのことで、資料は美しいので返送させていただきます。との事でした。がっかりしつつも、捨てずにわざわざ送り返してもらえたことには感謝しました。他にも丁寧な返事をくださった企業はありましたが、結果的には提携に至りませんでした。やはり提携を斡旋する仲介企業などを通さなければ無理なのだろうかと、落胆しました。しかしそんな時、一つの希望が舞い込みました。ブックをパリのオートクチュール組合の会長にも送っていました。お返事が届き、一度プレゼンに来てください。との事でした。
 私は実物のドレスなども持っていき、プレゼンテーションさせていただきました。パリのオートクチュール組合は、自分で申し込むという形ではなく、他の加盟しているデザイナーや関係者からの推薦によって、加盟が決まるという事でした。そしてオートクチュールのパリコレに連続して3回発表を続けたら、正式な加盟の推薦をしよう。と言って下さいました。日本人でプレタポルテのパリコレに参加しているデザイナーは多いです。しかし、オートクチュール組合に正式に加盟しているのは、当時、森英恵さんくらいだったので、本当に嬉しく思いました。苦労してプレゼン資料を作った甲斐があったと、喜びました。しかしそんな喜びの先に、このブックの企画が盗まれ、勝手に使用される未来が待っているとは思ってもいませんでした。ある時、アトリエに問い合わせをし、訪問してくれた人と親しくなりました。友人としても交流を続けていました。私たちの企画書を見て、フランス語の翻訳を見てくれることになりました。
 
09. 絶望の帰国の先に待っていた運命
 その後もドレスのオーダーを受けながら、ショーや展示会を続けました。特に、アートとファッションのイベントだったので、ルーブル美術館での開催をしたいと思いました。何度も企画書を作成して送りました。ある時、ニューイヤーに極寒のセーヌ川の橋の上でアートのパフォーマンスをし、みんなでアートイベントの署名を集めました。フランスにくる時に、「自分のためにフランスに行こうと考えるのはやめよう。」「何か大いなる存在のために、そして多くの人のために自分の人生を捧げる」といううことを決意してきました。何年経ってもその想いは変わりませんでした。多くの人々が署名してくださり、企画書と合わせて送ると、ようやくアポイントをいただけました。すると思いがけず、美術館側からも、スポンサーとして日本企業のT社を紹介しようと言ってくれました。しかし、その企業は、以前から私達のドレスのLEDを提供いただいていた企業のC社と同業種だったので、お願いしづらい状況でした。私たちは、ショーなどを通じてC社の LEDをフランスでPRする契約をしていたのです。そこで他にもスポンサーを募ろうと、日本の各種企業にもプレゼンしました。
 C社の社長にこの話を伝えると、本格的にルーブル美術館でのイベントを進める事になりました。具体的なイベントのプランニングや見積もりも出しました。しかしその後、C社の業績が思わしくないため、1年延期したいと言われました。私は、どうしてもこの機会を逃してはならないような気がしました。C社の社長に会いにいきました。会社が閉まると、近くのマクドナルドに移動しました。深夜まで「今すぐ進めるべきだと思います!」と説得しましたが、進みませんでした。その年にもう一度帰国すると、C社の社長が倒れ、半身不随になられたという事を知らされました。私は、何か「急がなければならない!」という予感がしたのは、これだったのかと大きなショックを受けました。C社の社長も、幸福の科学の信仰を持たれ、経営者としてとても心から尊敬していたので、突然の不幸を受け止めることは出来ませんでした。もっとC社の業績に貢献するPRができなかったか?とこれまでの仕事を振り返り、自分を責めることしかできませんでした。そして、なかなか立ち直ることが出来ませんでした。体調も崩し、しばらく食事も喉を通りませんでした。
 少しでも気持ちを変えなければと思い、その場で何も考えなくても出来る事を探しました。そして映画やドラマを見ました。その時にある日本人の俳優さんの演技が気になりました。それは、15年前に、合宿で「テレビに出る仕事をする」という夢を書いていた男の子でした。しかしその時は、まだ10歳くらいだったので、顔が一致せず、私は気がつきませんでした。また、私は10年近く日本を離れていたので、日本の芸能人についてもほとんど知らない状態でした。演技は控えめなのに、とても心に響いてくるような気がしました。そして少しずつ力が湧いてきました。それはもしかしたら、自分が過去に、合宿で子供達に届けようとしていたエネルギーだったかもしれません。そして私は、日本に拠点を移す事を決断しました。
 日本を拠点にしてパリコレに参加しているブランドが多かったので、オートクチュール組合への加盟も諦めずに進もうと考えました。パリでの10年あまりの間に出会った素敵な方々には、ほとんど挨拶する間もありませんでした。しかし、離れてもまた会える。仕事も出来るという確信もありました。岐阜の実家に戻り、仕事場を作りました。毎週末に、車で1時間半の幸福の科学の精舎に通い、作務のボランティアをしました。ボランティアは、館内のいろいろな場所を一人で黙々と清掃します。以前のボランティアとは違い、一人なので、無意識的に心の中で考えている事にも気がつく事ができました。何かを得るためにという気持ちがなくなり、無我な心になっていきます。とても心が穏やかになりました。

 “夢の男の子“の活躍にも、元気をもらいました。私が、15年前の合宿の時に出会った子だと気がつくのは、さらに何年も後でした。ファンクラブなどもあり日本のファンの世界に驚きました。ファンのメッセージを時々送るようになりました。すると、本人が読んでくれているような気がしました。さらに2日経ってから再びメッセージを書くと、彼も2日後にファンページの日記を書く。3日だと3日後に。5日だと5日後に。と、ピッたり揃うようになってきました。自分は個人的なメッセージを書くことができますが、彼はファンのみんなに対して書きます。それでも、自分が書いた内容に対する答えの様なものもありました。最初は、ファンへのサプライズだろうか?と思っていましたが、内容もリンクしています。私のようなファンが山ほどいるのだろうか?とも思ったりしていました。しかし、当時私は35歳だったので、ファンを追いかける年齢でもありません。家族の結婚してほしいという気持ちも、伝わってきます。私は宇都宮の幸福の科学の精舎で、結婚祈願を受けました。

 その帰り道に、東京で電車に乗っていました。ある駅で人が乗ってきて、自分の座っている前に、人が立ちました。顔を見ると驚きました。マスクをしていましたが、“夢の男の子“だとわかりました。しばらく別世界にいるような時間が過ぎました。次の駅が乗り換えの駅だったので、立ち上がって降りました。彼は道を開けてくれ、その後、私の座っていた席に座りました。私は電車を降りてからも、今のは何だったのか?と振り返りました。幸福の科学の祈願がよく効くのは、私にとって当たり前になっていました。しかし結婚祈願のすぐ後にこんな事が起き、すぐに受け止められませんでした。東京は1日に何百万人もの人が移動する場所です。
 その後も二人のメッセージの合図は続きました。数ヶ月して、彼のラジオの公開生放送がありました。ファンの数に対して、あまりに少ない募集人数だったので、期待せず申し込みました。すると当選したので行ってみました。小さな会場だったので彼の様子がとてもよく見えました。やはり電車で会った人だと思いました。いつものメッセージの合図は続き、その毎日はとても幸せでした。コンサートも行われたので行ってみると、ファンの数と歓声がすごくて、驚きました。ステージ上の彼は、とても遠い存在でしたが、これが運命なら受け入れようと決めました。
 
10. 家賃3万8千円の東京での再スタートと利権の剥奪の影
 その後、横浜の精舎で住み込みのボランティアをすることにしました。ボランティアというより、修行のように、奉仕しながら自分の信仰を高める。という学びの機会でした。彼のことも含め、自分の人生を落ち着いて見つめる時期があってもいいのではないか?と思いました。日本での仕事が忙しくなる前で、丁度いいと思いました。半年続けると心境も変わり、目標も定まって東京で活動しようという気持ちになりました。実家に戻ると、すぐに東京に移りました。都心のシェアハウスの三人部屋に住みました。
 私は早朝の2時から7時まで、近くの高層ビルの清掃の仕事をし、8時から夜の8時まで、そのビルの最上階の図書館で自分の仕事をしました。歩いて1分のシェアハウスに戻り、夜10時から3時間眠ります。そして翌朝も早朝の1時に起き、2時から清掃という毎日でした。パリでは、家族に助けられてばかりで、最初の2年と、資金繰りが困難なときは資金援助をしてもらっていました。しかし東京ではゼロから自分で始めようと決めたからでした。30代で1ヶ月3万8000円のワンベットからの再スタートは、あまり人に言えませんでしたが、覚悟は定まっていました。フランスと行き来する事も考えると、支出を極力ミニマルにしたかったのです。
 ハードでしたが、ルーブル美術館でのイベントを進めようという目標もあったので、辛い気持ちはありませんでした。フランスの幸福の科学の会員で、お世話になっていたパリの画家のS氏に手紙を書いていました。「芸術のオリンピックをしたい」と伝えるとOKの返事を下さいました。イベントのメインで出場いただくこと。そしてスポンサーにお声がけいただくことをお願いしました。S氏は80代の画家でありながら、欧州の初代自動車工業会の会長に抜擢され、欧州諸国への日本車の輸出にも大きく貢献された方でした。感性豊かなアーティストでありながら、絵画の中にも計算された緻密な設計が伺えました。同氏が帰国され、会いに行くと、予想していたスポンサーは紹介されませんでした。別の方を紹介されました。
 その時、既に激烈な利権争いが始まっていたようでした。S氏はおそらく気がついていて対立を避けるために、私には自分が卒業された大学のOBを紹介しました。日本経済を支える人材が多数輩出される大学で、OBの力も強力です。私はそのOBの方に会いにいくと、出場者の紹介を受けました。そして準備を進めましたがスポンサーの契約が進まなかったので、パリのS氏に会いにいきました。S氏は、自分の友人のOBの連絡先を全て書き出して、みんなに協力を仰ぐように言われました。私は同氏のアトリエに滞在させていただき、取材と作品の撮影をしました。

 S氏は私達のファッションショーにも毎回来てくださり、光るドレスを見て、「光る絵画に挑戦したい」と言って下さいました。そこで数年前に私たちが契約していたC社を紹介していました。C社の“ブラックライトに反応して光る発光体“を使って、絵を描かれました。滞在中も、毎日深夜まで、ゴッホのような情熱的な絵を描かれました。80代とは思えないバイタリティーでした。
 過去には私を食事に誘い、口説こうとしたことがありました。しかし押し返してキッパリ断ると、それ以降は、一度も手出ししませんでした。中には、“自分の言うことを聞かない人間は相手にしない“という大物もいるかもしれませんが、S氏は全く違いました。そして、まるで同性の弟子のように、時には叱りつけながら可愛がって下さいました。労働ビザが取れず相談した時も、「ビザも取れないなら、父ちゃんと母ちゃんのとこへ帰れ!!」と叱られました。帰り道、私は一人で「絶対に取って見せる!」と泣きながら帰りました。その事で奮起させられ、会社設立と同時にビザを取得することが出来ました。私は尊敬し、師匠のように慕っていました。
 S氏の紹介文を書くのに、今ひとつセンスあるエディターのような文章力が、自分に足りないと思い相談しました。すると「参考にするといいよ。」と、過去に自分の事を紹介した雑誌や新聞を見せてくれました。私は、文章以上に、まだまだ知らなかったS氏の活躍を目の当たりにし、感動しました。S氏は外食が好きな方だったので、家ではあまり料理などをされません。滞在中のある日、S氏は食事の時間を過ぎても、ずっと仕事に没頭されていました。一息ついた頃に、「サンドイッチを作ったんですけど、食べますか?」と聞くと、一緒に食べて下さいました。ありあわせの材料で作ったシンプルなものでしたが、美味しいと言って喜んでくれました。その後も絵を描き続けられ、最後の日には「OBのみんなに連絡するように。」と言って一人一人の人物像や活躍を教えててくださいました。

 そして帰国して1週間後に突然、S氏が亡くなったというメールの知らせを受け取りました。私は夢だろうか?と呆然とし、現実だとわかると、涙が止まりませんでした。電車で移動中でしたが、人目を気にする余裕は1ミリもなく、激しく号泣しました。まだ1週間前には、あんなに元気だったのに・・・!信じられませんでした。私が帰国した数日後に、アトリエで倒れていたのが発見されたとのことでした。何人かの方から電話があり、質問を受けました。私が疑われているような気もして驚きました。私はせめてS氏の希望を叶えたいと思いました。S氏が力をふり絞って描かれた、光る絵を多くの人に見て頂きたかったのです。
 ところが同氏の絵を日本で預かっていた方々から反対されました。会いに行き、泣きながら「ご本人の願いを叶えさせて下さい。」と訴えましたが、「もう死んだらおしまいだ。」などと言われ、まるで心臓が潰されているような心境でした。しかし、もしもS氏だったら、どんなことがあっても必ずやり遂げるだろう。と思うと、諦められませんでした。ルーブルの代わりの会場の紹介を受け、パリに行き下見すると、そのフロアには大量の荷物が山積みになっていました。それも、今思えば不思議な出来事でした。何人集まっても一晩で片付けるのは無理です。パリで集まってもらったボランティアのメンバーに、手分けして会場探しの電話をしてもらいました。しかし、パリコレ期間中で、1つも空いていませんでした。主よ・・・どうしたら・・・
 その時、以前に友達がセーヌ川の船のパーティーに誘ってくれたことを思い出しました。一隻づつ訪ねて、オーナーに聞いてまわりました。その中で、奇跡的に1隻、地下と1階を貸していただける船が見つかりました。しかも企画していたイベントのコンセプトと事情を説明すると、こちらの希望予算でいい。と言って貸して下さいました。まるで救世主が現れた様な気持ちになりました。ピアノがなかったので、電子ピアノをレンタルしたりと、前日の夕方から全ての準備をしました。
 そして当日、無事にイベントを開催することが出来ました。何よりも出場者の皆さんの芸術表現やプレゼンテーションはとてもエネルギッシュでした。集まってくれたボランティアの方々も、一人一人が貴重な存在でした。「心を打つもの」と言う審査基準で投票が行われ、グランプリが決定しました。S氏が主と共に見守って下さっていたような気がしました。「何とか開催しましたが、光る絵を見ていただくことはできませんでした。申し訳ありません!」とS氏が長年愛したパリの街並みに向かって、心の中で語りかけました。涙で一杯になった目に映るパリは映画のワンシーンのようでした。

 イベントを終えてしばらくすると、別のシェアハウスに引っ越しました。六本木のシェアハウスは夜の仕事をしている子が多くいました。私は、お酒もタバコも臭いだけでも我慢できない体質でした。また、たとえ給料が高くても、男性の相手をする仕事だけは出来ませんでした。みんなの仕事の会話には加われず、次第に距離ができて行きました。しかし、夜の仕事をしながら、日中はシンガーを目指してレッスンを重ねる女の子もいて勇気づけられました。また、日中は営業・夜は飲食店とダブルワークをして、家族に仕送りしている女の子もいました。ポールダンサーをしている女の子の子の頑張っている話を聞くと、彼女の引き締まった足は、一段と美しく見えました。名残惜しい気持ちもありましたが、感謝の想いでシェアハウスを出ました。図書館には電車ですぐ通える場所で、個室のある物件を見つけました。家賃は上りましたが、やっとプライベートの時間が持てました。
 
“夢の男の子“には、メッセージを送り続けていました。仕事やプライベートの近況なども全て書いていました。もちろんS氏やイベントの事も伝え、一緒に仕事がしたいと思っていました。ただ、彼の活躍に比べ、自分の準備しているイベントの規模がまだ小さかったので、今は難しいと感じていました。おそらくメッセージの内容は感情的で、この一連の困難を知り、心配させてしまったのではないかと思います。しかしどんなことも受け止めてくれるような気がして、嬉しく思いました。一度も二人だけで会ったこともないのに、心は寄り添っていました。しかしなかなか結婚に至らない現実に苦しみました。そんな時、小さな奇跡が訪れました。
 ある日、私は仕事のアポイントのために、六本木から赤坂方面に向かって歩いていました。視線を感じた方に目を向けると、サングラスをした彼がいました。すれ違う瞬間が、急に伸び縮みしたように、異常に長く感じられました。私はそのまま歩き続けました。こんなに人が多い東京の街中でまさかすれ違うなんて・・・!とまず驚き、声をかけるべきか悩み・・・。急に話しかけたらどうなるか?と想像し・・・アポイントまで時間がないと葛藤し・・・。でもこんな奇跡はない!そして30メートルほど進んで振り返った時には、もう後ろ姿が豆粒のように小さくなっていました。その後、彼は「その日、その近くのテレビ局で仕事があった」という事を日記に書きました。やっぱりそうだったのか。と、奇跡的な出会いがまた起きたことを、本当に嬉しく思いました。
 
 私たちが目指していたルーブルには、透明のピラミットの中心に、赤い稲妻のようなLEDのライティングが設置されていました。少し怖い感じがしたので、ルーブルのディレクターかスポンサーが変わったのかな?と思い、それも私たちのイベントを阻止する妨害でないことを願いました。私は時には悩むこともありますが、わりと楽天的に考えるタイプでした。なのであまり妨害などのネガティブな受け止め方はしてきませんでした。しかし、C社の社長の半身不随や、S氏の死などに直面し、さらにその他の問題を目の当たりにして、慎重にならざるを得ませんでした。
 C社がメインスポンサーとなった場合はC社に。またS氏にOBを紹介していただいたら、そのどなたかに。芸術オリンピックの利権を差し出してもいいと考えていました。その安易さや無頓着さが、権威に敏感な人々の欲を掻き立ててしまったのかもしれません。さらに芸術アワードであればよかったのに、“芸術オリンピック“と言ったために、膨大な利権を連想させてしまいました。S氏の死についても、妨害者がスポンサー側をブロックしたら、OB達の資金で進めようとしたために、消されたのではないか?という気もしてしまいました。しかも、私が犯人にされかけていた。というふうにも見ることもできます。考えればキリがなく、C社の社長の半身不随も、ただの病気ではないのでは・・・?などと思えてしまいます。現実社会の闇を見たような気がしていました。
 パリの船での芸術イベントの開催は、プレコレクションとして小規模の開催でした。そこで、その後すぐに、翌年の第一回の開催に向けての準備を始めました。会場はルーブルから、パリ万博が開催されたグラン・パレで行うことにしました。フランスのイベント会社を紹介いただきました。日本の経済産業省の補助金申請をすることも理解して下さり、見積書も全てしっかり揃えてくれました。審査員には各界の一流の人々にお集まりいただくことにした。フランスのチームには、俳優やミュージシャンだけでなく、デザイナーやシェフなどを招く伝手があり、錚々たる方々を候補に上げて下さいました。やはりフランス人は芸術に対する敬意や重んじる心が強いと思いました。ビジネスにおけるコネクションやコミュニケーション力も高いと思いました。日本企業が招くのであれば、いくつもエージェントを通し、膨大な費用がかってきます。芸術のオリンピックを創りたいという想いに120%応え、彼らはコンパクトな予算で付加価値の高い内容を提示してくれました。
 しかし、スポンサーを募る段階では、まだ審査員に正式な依頼や契約をすることができません。そこで提案書やウェブサイトには、<予定>という言葉を添えました。強力な応援者も現れ、フランスチームとの打ち合わせで、激励して下さいました。そこで各社とも一段と力を込めて資料を完成させてくれました。ところが、申請は受理されず、保留となりました。まだ、年度の初期だったので、応募枠も空いている時期でした。申請が受理された事例を参考に、提案書も見積もり書も作って頂いたので、本当にショックでした。フランスのメンバーにも申し訳ない気持ちでした。
 私は頭を切り替え、企画運営をフランスチームにお願いし、スポンサー集めを日本の代理店に依頼しようと考えました。何社かにメールすると、ある代理店がコンタクト下さいました。フランスのチームや人脈詳細も知りたいとの事だったので、資料にまとめて提示しました。イベント詳細も示しましたが、なかなか進みません。業界の知人に相談すると、「契約する素振りを見せて保留にし続けるという“妨害“もある。」と言われて驚きました。決定的な証拠はありませんでしたが、何度か「急いでいる」と伝えてもなかなか進みませんでした。もちろん、大企業の決定には時間を要することはわかっていました。しかし、それをふまえても長過ぎたので、身を引かせて頂きました。代理店の立場からすれば、スポンサー集めだけでなく、企画運営もし利権も獲得したいと考えるのが当然だったかもしれません。
 
11. 再び踏みとどまった結婚がもたらした現実
 “夢の男の子“とのやり取りは続きました。ある時、彼の作詞した曲の中に、「君は忘れてるかもしれないけど・・・」というようなニュアンスのフレーズがあることに気がつきました。そして、とうとう私は夢の男の子の事を思い出しました。母に連絡し、合宿の頃の写真を、全部送ってもらいました。どこかに写っていないかと、夢の男の子を探しましたが、その合宿の時の写真はありませんでした。それでも、夢のカードに事務所の名前と履歴書と書いた事をはっきり思い出しました。こんな事があるとは・・・。と思いながら、ますます運命的なものを感じざるをえませんでした。
 しかし相変わらず、二人で会ったり、直接的な連絡手段もないままでした。それでもいつものメッセージと日記だけで、かなりお互いの気持ちを確かめ合うようになっていました。そして私は彼のコンサートのツアーにも行きました。何十ヶ所で行われる全ての会場には行けませんでしたが、毎回数カ所は行きました。ある年には、仕事を持ち歩きながら仙台や広島などの会場に行ったことがありました。コンサートの素晴らしいステージとは対照的な事もありました。それは、会場で出会うファンの方々との触れ合いです。高校生くらいの若い女の子から、年配の70代くらいの女性もいます。とても素敵で、いい人ばかりでした。しかし、こんな熱烈なファンがいる人が結婚したら、どんなにみんなが悲しむだろう。と思うと気持ちは沈むばかりでした。
 そんな中、夢の彼は所属事務所内の体制が変わり、彼の周囲のスタッフさんの交代もあったようです。そして、彼がそれとなく、もう大丈夫だ。これからは一緒に進んでいこう。というようなサインをくれたような気がしました。妄想ではないと感じ、嬉しさと同時に不安も込み上げました。もし秘密裏に結婚したとしたら、多くのファンを欺くことになります。ファンの熱烈さは凄まじく、中には、彼のために結婚もしない。人生を捧げる。という勢いの子もいました。私が会った以外にも、ファンは山のようにいます。とはいえ、公表した場合、批判が殺到するだけでなく、彼の人気まで下がることも考えられました。同じ立場の人気俳優同士でも、場合によっては批判され人気が落ちることがあります。
そして何よりも、多くのファンは悲しむ事になります。
 私は25歳で不倫相手の結婚を諦め、橋の上で河に飛び込もうとして「これからは人を幸福にするために生きよう」と心に決めたことを思い出しました。それを破ることはできませんでした。私は祈りました。そして、本当に相手なら、最良の時期が来るのではないか?今ではないのではないか。という気持ちにもなりました。そして手紙を書きました。そのように書いたつもりでしたが、相手にとっては断りの文章にしか思えなかったかも知れません。彼が大きなショックを受けていることだけが伝わってきました。私は勝手に「彼も同じ気持ちでいてくれる。わかってくれるだろう」とどこかで思い込んでいました。

 その後、彼が女優さんと交際中という記事がニュースになりました。私は小説にありそうな、“失ってから気がつく愛“に打ちひしがれる登場人物のように、深い海の底に落ちていくようでした。私は大きな思い込みをし、彼のプライドも、希望も全てを傷つけていたことを思い知りました。そして取り返しのつかない現実に対して何も出来ず、息をすることも苦しい状態でした。気がついた時には霊障のような状態になっていました。霊障とは霊的に敏感になって起きる障害です。生きている人の生き霊の声や、亡くなっている地縛霊の声を感じているようでした。私の住んでいたシェアハウスは新しい建物でしたが、その前の建物や昔からその土地に彷徨っている霊の想いを感じ取ってしまうようでした。苦しみや悲しみを感じ、そして殺されるような気がしてしまうのです。
 ある日母に電話で助けを求めました。「殺されるような気がしてしまう。」と言う私の様子に異常を感じた母は、仕事をやめてすぐに新幹線で東京に来ました。数時間後に「今駅に着いた。」と急に電話があったので、「母が迷子になるのでは?」と思い、慌てて駅に向かいました。駅で食事をしながら話をすると少し落ち着きました。ところが、その後シェアハウスの同居人の子達まで怖くなってしまいました。殺される恐怖を感じてしまうのです。とうとう引っ越すことにしました。そして一人で住むようになりました。すると環境が変わり、少し落ち着きました。霊の影響を受ける霊障というのは、軽いものは鬱病になったような症状のようです。人間は常に目に見えない霊と共に生きています。なので生きている限り、誰もが霊障になる可能性はあります。私は鬱病になったことはありましたが、今回のような状態になったのは初めてでした。そしてまた週に一度、幸福の科学の精舎で作務(ボランティア)をすることにしました。マイナスの感情が出ていると、それと同じ波長の霊と同通しやすくなってしまいます。反省したりして心を整え、心を明るい方向に向けていきました。

 ただ、霊的に敏感なことは、悪いことだけではありませんでした。心境が良いと、良いインスピレーションも受けたりします。そして、信仰や悟りを高めないと、悪い方に引っ張られたら危険だということも身に染みました。私はとことん心の修行して、強い対応力を付けようと決めました。通い続けると、どんどん成長し、仕事のアイデアやインスピレーションも広がりました。
最初は彼のことを、考えてしまうと、苦しくなってしまう。ということがありましたが、少しづつその回数も減っていきました。メッセージを送って謝罪したり、会って話そうとしましたが、実現しませんでした。
 いつも会おうとしても送っているメールの内容がすり替わっているようでした。彼がパリで映画の撮影していた時、週末に私がウイーンで会おうと、住所を送ると、彼はロンドンに行っています。ベルギーと書くと、彼はスペインに行っています。そして私のクレジットカードからロンドンやスペインへの航空券の料金が、引き落とされていました。私は購入していませんでした。これは、私も行ったということに見せかける、何者かの犯罪だろうか?それとも、私が彼に航空券をプレゼントした事になっているのか?いずれにしてもカード情報が盗まれて不正利用されていることは確実でした。もしかしたらこれも利権がらみの妨害だろうか?それなら負けたくないとも思いました。
 そして近年は彼が所属していた事務所の問題が取り沙汰され、国内で大変な批判にあっていました。もしもこれも妨害であるなら、私は太刀打ちできない規模であると思いました。彼の身も危険になります。そして、もう主に委ねようと決めました。
そんな時、ある大川総裁の講演で、結婚についてお話し下さったことがありました。「外見ではなく魂が響き合うかどうかが大切だ」と言われた言葉を受け止めました。私は、彼の外見も内面にも惹かれてきました。しかし魂と言われた時に、私はかなり宗教的な魂であり、無理やり彼なら理解してくれると思い込んでいました。時間はかかりましたが、少しづつ彼が選択する人生を応援しようと思えるようになっていきました。考えてみれば、私は、C社の社長が半身不随になってしまった時、完全に生きる希望を失っていました。その時に立ち直るパワーをもらっただけでも、救いでした。夢の男の子に、一生懸命届けようとしていたものを与えられ、救われていたのです。信仰によって自分の心を鍛え磨くことで、自分が失った12年という悲しみや、執着は消えて、感謝に変わっていきました。
 そして私は、新たに「魂が響き合うと感じる人」を見つけました。ただ、その人に相手がいるのかどうかは、今も分かりません。本当に実を結ぶかどうかもわからないのが現実です。しかし、互いの魂が響きあい、人生のミッションを共有できる人。そして周りも幸せにできる人との縁があると信じています。究極的には、そのチャンスは生まれ変わった次の人生にだってあります。今は、一瞬一瞬、自分に与えられた使命を1メートルでも、たとえ1センチでも前に進めたい。そんな風に考えています。
 
12. なぜ妨害が拡大したのか?
 以前から自社で企画する様々なアイデアや企画がいろいろな企業で無断使用されることは、頭を痛めていました。どこにでもありそうな企画だけでなく、どこにもないオリジナルなものも流出していったので、相当な打撃を受けました。PCで企画書を作成するので、どうしても漏れてしまいます。専門家に相談すると、本格的なハッカーのような技術があれば、どんな高度なセキュリティ対策をしても、完璧に守ることはできないと言われました。仕方なく手書きの企画書作成をすることも多くなりました。しかし、今度は監視カメラやそれを届ける通信方法が問題になりました。
 会社のウェブサイトの申し込み妨害も受けるようになりました。フォームからのオーダーの申し込みや、問い合わせが届かなくなります。フランスで企画したライセンス企画も、知らない間に他の場所で実行されていたことが分かり落胆しました。翻訳を見てもらおうと、安易にデータを渡したことを後悔しました。さらに、他の団体による別名の芸術イベントが開催されました。このイベントがあったために私たちのイベントを進めないという妨害があったのかもしれません。
 
 アイデアや企画は、神の美を形にするためのコンセプトやアートディレクションに主眼を起きました。現代のビジネスでは、目に見えない宗教的な思想の価値は理解されにくい現実があります。一時の流行を追うものが多く、普遍的な付加価値を追求すること自体が少なくなりました。そのため、時を超えても輝き続ける商品やサービスも少なくなりました。企画も、目に見える数値やデータで測られることが多くなっています。本質的な価値は、宗教や文化的な価値を重視されない人には、言葉だけのものとなり、あまり重要視されません。しかしその普遍的な美の中に、実は本来の価値があります。悟性や魂で感じるものだからです。
 例えば、なぜ多くのイエスの信仰者が命まで賭けて迫害の中を進んだのか?そこには数千年を超えても消えない信仰の永遠の価値があったからです。それは現実として何世紀をも超えて世界中の多くの人々を救い、人類を幸福にするものとなりました。従って、こうした目に見えない真価を形にするのは、困難ですが、とてもやりがいのあることでした。例えば、Mr,CORONAのストーリーは、イラストも簡単なもので、ストーリー展開も何かの映画や本にありそうなものです。音楽もストーリーのために作り込まれたものではありません。しかし、物語のメッセージは、“神の美が、悟性や魂に触れるもの“になっています。従って、そうした価値を感じる人には、少し響いているのではないかと思います。信仰は、本当は全ての人類が心の奥底で潜在的に求める価値です。
 私たちは、今まで規模が小さかったので、大企業なら何億・何十億かかるアートディレクションでも、数百万・数千万円で形にしています。しかしその意味がわかる同業者にとっては脅威となり、盗んだり、敵対視されることになってしまったかもしれません。私は規模も違い、相手にされるはずがないと思っていたのですが・・・ 特に代理店などは、あらゆるメディアやIT業界・芸能人や言論人・政治といった幅広い分野への影響力もあります。さらに、代理店に広告を依頼するのは、ほとんどの全業種になります。全てにつながりがあるということになります。私たちは、スーパーAIの開発を目指していますが、それも脅威と見られていたかもしれません。全てを「気のせいだ。自分の思い込みだ。」と思いたかったのですが、日本で活動した数年の間に、様々な現実を目の当たりにしなければなりませんでした。
 
 パリでは普遍的な美を求めてドレスのブランドを立ち上げました。私は帰国後、日本にオートクチュールの技術者が少ないとわかり、スクールを開校して技術を教えました。世間では、大学や専門学校で習ったことは仕事で使えない。と言われることがよくあります。それは生徒が「仕事に必要な専門的な技術を学ぶ」のではなく、「その仕事の分野を総合的に把握する」という事を学んでいるからです。それは、その業界で生きていくために最低限必要なベースなので、とても重要です。そこで私達は、大学や専門学校の後、あるいは社会人が通う「仕事に必要な専門的な技術を学ぶ」スクールを目指しました。専門学校や大学や企業に数千通の手紙を送り、卒業生や企業人のスキルアップに活用してほしいと伝えました。真夜中に24時間オープンしている郵便局に駆け込む日々が続きました。
 カリュキュラムにも工夫を凝らしました。例えば、イタリアのテーラーの職人達は、ボタン付けだけを数年間も経験すると言われています。このシンプルな仕事の中に、テーラー職人として技術を極める工程が含まれます。生地を知り尽くし糸をさばく重要な技術的要素が眠っています。私たちのスクールの刺繍のコースで学ぶリュネビル法の刺繍は、スパンコルやビーズを用いたとても華やかな刺繍です。しかし全ては、シンプルなかぎ針のステッチの精度に鍵があります。そのステッチに、パーツを挟んで刺繍をすると、ビーズやスパンコールなどの刺繍になるからです。しかし、テーラー職人のボタンつけように、ステッチだけを1年間差し続けるとか、ひたすら1万回刺すのは大変です。
 そこで私は、ミュシャやクリムトの絵画をステッチで描く。という課題を生み出しました。色糸を使い、ステッチで絵画の明暗や色ムラ、グラデーションなどを表現します。糸で面を埋めるだけでなく、上に二重・三重と刺繍を重ねることで、微妙な色彩表現も可能です。一人一人の個性と共に、刺繍の味わいのある豊かな作品が出来上がっていきます。そして完成した時には色を重ねたり混ぜるために、何万回ものステッチをすることになります。従って、この課題を終える頃には、刺繍針を自在に操ることができるようになっています。
 年に二回、技術試験も設けました。多くの企業が、新人社員がどんな仕事をしてくれるか?ということは、一定の時間、働いてもらうまで分かりません。しかし、時間制限のある技術試験があると、「商品化できるクオリティの仕事を、このくらいの時間でこなしてもらえる。」ということもわかるので、雇う側もある程度想定できます。働く側も、既に試験をパスして、基礎力が身についているので、自信を持って仕事をこなしていく事ができます。
 週に1回のスクールでしたが、オートクチュールの技術を求める人が集まってくれました。少人数制ですが、3コースを開始した年には、1千万円以上の学費の収益になりました。そしてウエディングドレスのレンタルも始めました。ところが、フランスの技術やキャリアを持つ企業が学校を作り、その卒業生を雇って、制作や販売・レンタルもしていく。という学校から職場・サービス・販売までの一貫したビジネスモデルは同業者に危機感を持たれてしまいました。小企業でしたので、まさか他社に相手にされると思っていませんでした。

 このように広告・各種メディア・企画・制作・販売・レンタルなど、様々な分野で敵対視されることになってしまったのも、さまざまな妨害の要因だったかもしれません。利権に関しては、政治権力や海外の力も働いているようで困惑しました。妨害の種類も、SNSやニュース・イベントなど広い範囲になりました。映画の内容を通じたイメージダウンを狙うようなものもありました。企画の盗用は、国外の大企業や権力者にも拡大していきました。まるで私たちが法的解決をしないように、拡大されているようにも思えました。
 お申し込みの妨害は、全てオンラインで申し込みを受けていましたので、生命線を切られることになります。家族に相談しても、私の思い込みと言われたり職業を変えるように言われました。それは大きな勢力を相手にするなら安全で常識的な意見です。しかしそもそも常識をこえなければ実現できないようななプロジェクトでもありました。またその妨害がプロジェクトの信用を失わせる意図がある事も感じていました。もう日本を出るしかないと思いました。2020年に海外に出てみると全く反響は変わりました。しかし、海外に出ることを止めるために、今度は広告すら一件も届かなくする申し込み妨害が半年続きました。半年も収益が途絶えたら本当に厳しく、もちろん自分の給料は出ません。
 
13. 無実の拘束と刑務所の地獄と天国
 海外では、ホテルや滞在先に手がまわり、不可解な事件が起きます。自動車がものすごい勢いで歩道を歩いている私に向かってきました。ところが、そのそばにいた車が急ブレーキをかけたため、私に向かっていた車が衝突し、ギリギリ命拾いしました。その後、ベラルーシでオーバーステイになり拘束されました。パスポートの破損で退去命令が出され、1週間以内に国外に出ないと、拘束されると言われました。日本の領事館に行くと、他国はダメで日本へ帰国しなければならないと言われ、困惑しました。ところが片道の航空券がエコノミーでも60~80万円しています。これほど高額なチケットは、周辺国ではありません。もっと距離のあるフランスや米国でも、片道でこの価格はありえません。金額が跳ね上げられている様でした。一人の人間のためにこんな事をするなんて・・・。
 1日で出れる罰が、帰国を拒んだために70日の拘束になりました。ベラルーシの警察にも説明し日本に帰国せず亡命したいと伝えました。しかし日本からの圧力がかかり、亡命は許されませんでした。
長い間、私は家族に言われるように、妨害は私の勘違いや思いこみだと思おうとしてきました。しかし、それが現実だったということを、70日間、この身で、この肌でに感じさせられたのでした。
 
14. 迫り来る死
 帰国後、SNSの開拓をして申し込みを増やして凌ぎましたが、その後、SNSも妨害に遭いました。拘束から解放された開放感は消えていきました。なぜなら、私にとって東京そのものが牢獄になっていったからです。携帯やPCはもう何年も前から監視されています。なのでPCで作っていた企画書が漏れて、無断使用されることも日常でした。私はインターネットカフェに行って仕事の連絡や、新しいメールアドレスの作成をしました。しかし、家を出る時点から監視されていて、後をつけられたこともありました。それが嫌で、駅のトイレなどで着替え、変装のようなこともしました。なぜ犯罪もしていないのに、こんなことをしなければならないのか?という気もしましたが、悲しんでいる余裕もありませんでした。しかし、日本の監視カメラ設置は進みました。東京はインターネットカフェも、身分証明書を提示しなければ利用できなくなりました。

 国内で、これまでに何人かの有能な弁護士と知り合うきっかけがありました。しかし、私の携帯やメールで連絡をとったことがある人は、全てマークされていました。私は新たな弁護士を探そうと思ってインターネットで調べました。連絡はネットや携帯の通話だと知られてしまいます。スマートフォンを何台か買いましたが、どれも監視されてしまいます。家から徒歩5分の公衆電話からかけました。しかしネットで調べた時点でマークされていて、どの事務所も自分の名前や社名を言うと断られました。それでも一箇所でも対応してくれる所があればと思い、諦めず何度か通って、全てのリストに電話しました。しかし全て断りを受け、一つも見つかりませんでした。
 同じように、公衆電話から収益源を求めてアルバイト先に電話しても、名前の漢字を聞かれ、すぐに断られます。挙げ句の果てに、公衆電話で電話しているところを、週刊紙のカメラマンに何枚も写真を撮られました。いかにも、「何をしたって全部押さえているんだ!」と言わんばかりの現実に驚愕しました。とうとう、アポなしで弁護士事務所に駆け込みました。しかし何日かすると断りを受けました。手が回って行くのです。日本国内では、もうデジタルでもアナログでも包囲されていて、企業の成長どころか、存続も生存も無理なのだと思い知りました。家族も敵対し、もう日本を出るしか生きる術はなかったのです。2023年の11月、東京の事務所の全てのものを売ったり処分して、海外に出ました。
 
 私はこれまで10年ほど、自分の給料もほとんど受け取ってきませんでした。給料なしで、働いている人は、世の中にあまりいないと思います。少し、事業者にはいらっしゃるかもしれません。その経営不信が、経営手法の問題だけであれば、自己責任ですが、利権の剥奪をはじめとする様々な外部の妨害によって起きてきました。企画の盗用では何億・何十億円もの損害を受けました。もちろん、はたから見れば、妨害や盗用はわからないので、企業が低迷しているだけにしか見えません。数字上では10分の1以下の収益になりました。
 数ヶ月前から完全に会社の問い合わせの申し込みがブロックされました。詐欺会社として捏ち上げられているかもしれません。資金が尽き始め、4月に帰国しなければマイナスになると分かりましたが、とうとうメールも電話もブロックされました。新しくメールやSNSのアカウントを取得すると、アカウントが乗っ取られて自分がログイン出来なくなります。Face Bookの友人は古くからの友達も含め数百人いましたが、数週間前に、なぜか友達が突然一人になっていました。もう一度、一部の人に友達の申請をすると何人かの人が友人になってくれました。インスタグラムもシャドウバンの状態になっているかもしれません。全てのつながりを断たれるだけでなく、悪い噂が膨大に捏造されました。ポーランドで新しく購入したスマートフォンは、他の人からの電話や、予定のアラームなどが、勝手に鳴らない設定に変わってしまいます。設定が自動的に行われ、自分で戻せません。スクリーンショットをすると画面が真っ暗になります。アプリも動かなくなったりしていました。ショップで見てもらってもおかしいと言われて原因がわかりません。
 さらにスクールのメンバーや仕事のメンバーとの信頼関係が崩れるようなことが起きました。レッスンができなくなるような事態もありました。7月の初旬にレッスン開始が大幅に遅れた日がありました。その時滞在していたホテルでの出来事が原因です。しかしホテルの人や滞在していた人が犯人かも分からないので、何があったかは書くのは控えます。スクールの生徒には、この全てを打ち明けることができず、苦しみました。体調を崩しているのも事実でした。しかし、長い間、このような状況にあったという“一番大きな理由“。それは、彼らに与えるショックも大きく、簡単に伝えることはできませんでした。スクールを開校してから4年間、一度もレッスンを休みにしたことも、開始時間が遅れたことも、ありませんでした。最初は、こうした問題がなかったからです。
「他国への亡命を止められる→人々の欲望や憎しみを煽られる→収益を止められる→海外で困窮→餓死」という構図になりつつあり、恐怖を感じました。
 
 人は、現在どのような環境に置かれているかで、その人がしてきたことや、その人自身がわかる。という見方もあると思います。私は、プロジェクトに誠心誠意を込めてきました。多くのインスピレーションを活かし、形にしてきました。プライベートの時間も割いて進めてきたものです。もしも私たちが進めてきた芸術のオリンピックや、大聖堂のプロジェクトが無価値であれば、このような妨害や利権の剥奪が行われなかったかもしれません。無実の70日もの拘束をしたり、嘘の噂を広げられたりということもなかったかもしれません。現代の多忙な時間の中で、人は見向きもしないでしょう。
 しかし、現実にはここまで追い詰められてしまいました。それが海外にまで広がりつつあります。他国の入国管理局で亡命を求めても、強制力で、揉み消されてしまう状況です。なのでポーランドで出会う方々にも、この様な包囲を受けていることを、簡単に打ち明けることができません。
しかし、たった一人になった今でも、私は人の愛や正義感を信じています。どんなにAI などのテクノロジーを駆使して、世界中で悪質な噂を拡散されても・・・。世界的な洗脳が行われたとしても・・・。利権を剥奪するために、私が犯罪者といわれる様な犯罪を捏造されても・・・。その真実を見抜き、正しい目で見てくれる人はいると信じたいと思いました。
 
15. 最終的な選択
この状況でどうするか?この文章を書きながら、祈り、何度も考えました。あなたなら、どうされますか?

「生」・・・ 何とかして生き延びる。しかし、私は生き延びる為にプロジェクトを諦めることはできません。

「死」・・・ それがプロジェクトの意図を伝え、またこの地球上の平和のためにも、最も強いメッセージになるかもしれません。しかし、もしも「死んだ」ということ事態が隠されたら?メッセージや遺書なども消されたら?ということも考えられます。
 
そんな事を考えている時に、幸福の科学の大川隆法総裁の以下のメッセージを見つけました。

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私はあなた方に告げたい。
この宇宙は、本当は、「目に見えるもの」ではなく、「目に見えないもの」によって出来上がっています。
その「目に見えないもの」とは何であるかといえば、それが「愛」であることを、私はあなた方に伝えたいのです。
宇宙は「神の愛」によって創られました。また、地球を含む、様々な銀河系、惑星系の中には、人類型や動物型、植物型など、さまざまな生き物がいますが、万象万物すべてに「神の愛」が宿っています。
あなた方の目に見せることができなくても、あなたがたの心のなかには、私の言葉を感じられるところがあるはずです。
なぜ感じられるのでしょうか。
それは、あなたがたの内に「神の愛」が宿っているからです。
だから私は「人間は神の子だ」と言っているのです。
あなたがたが神の子であることは、あなたがたが全知全能で、向かうところ敵なく、何でも成せることによるのではなく、あなたがたのなかに「愛」が存在していることによるのです。どの人の内にも「愛」が存在しています。(中略)
あなたがたが、たとえ有名であろうと、無名であろうと、
「あなたがたが菩薩であるかどうか」ということは、
あなたがたがなしたこと、
「人を生かす心と行動」、
「人を許す心と行動」、
これにかかっているのです。
許しがたきを許しなさい。
あなたがたを迫害し、差別し、白眼視する人をも許しなさい。
それが、あなたがたに課せられた、大きな大きな力なのです。
あなたがたは、今、力を授かっています。
それは「天上の力」です。
「神の力」です。
「地球神」の力です。
ならば、この力によって、
邪悪なる国に生まれた者たちをも最終的に許し、
乗り越えていくだけの「包容力」を持ってください。
未来を確実に明るいものへと進めていくために、
勇気ある一歩を、毎日毎日、歩んでください。
そして、
「小さな日本という枠を超え、
東洋という枠を超え、
地球という枠を超えて、
愛がすべてを一つにする」
ということを信じてください。
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このメッセージが深く心に染み込んだ時に、「私は今までの自分でいいのだ。」と思えました。私に迫る様々な問題は、最近始まったのではなく、もう長い間襲い掛かり苦しんできました。しかし、いつも私は「主とともにある。主に導かれている。そして大聖堂への夢がある。」と心から感じられると、幸せを噛み締められたのです。
たとえ拘束されて刑務所にいたときも、事故に遭いそうになって不安になった時も、ナイフで手に傷を負った時も、東京で完全に包囲されたと感じた時も、死が迫りつつあると感じた時も・・・。どんなに苦しみに打ちひしがれた時でも、その主の愛の想いにたどり着くと、いつも恐怖から解放され、幸福を感じました。そして自分を害する人のことを、恨んだり、怒ったり、憎んだりということはあまりありませんでした。今思えば不思議です。
 少し悩んでも、自分に非があれば反省し、心はまた明るい方に向いてきました。なので私の事情を知らない人は、こんな問題を抱えている人だと感じなかったのではないかと思います。
ポーランドの山でも、自然が美しいこと、動物たちが可愛いこと、イラクサや蕨、木苺が美味しいこと・・・。そしてプロジェクトをどうしていくか。などと考え、新たなストーリーも生み出しました。いつも大変な状況でしたが、自分を害する人のことをあまり考えてもきませんでした。ただ、考えても、何もできないという現実もあったからかもしれません。
 
さらに、「あなたがたを迫害し、差別し、白眼視する人をも許しなさい。それが、あなたがたに課せられた、大きな大きな力なのです。あなたがたは、今、力を授かっています。」私に課せられた、大きな大きな力・・・? 力を授かっている?この意味が深く心に入ってきた時に、自分の認識が全く逆転して見えました。
今まで私を害する人や物事は、私の努力を引き出し、自分自身を鍛える力をくれました。
悪く言う人たちの言葉は、私の心や信念を強くしてくれました。
地球に降りかかる様々な困難は、このプロジェクトの必要性を感じさせてくれる様にも見えます。
そして利権の剥奪や企画の盗用は、私たちの企画の真価を確信させてくれました。
すべてが、芸術のオリンピックや大聖堂のプロジェクトを成し遂げていくミッションの為の砥石である様にも思えました。
妨害や悪く言っていた人たちも悪役を演じてくれていたのではないか?と思えました。
わざわざ悪役を演じて下さったことにも感謝の気持ちが溢れます。
そして何よりも、“死が迫ってきた“ことで、今、私はこのメッセージをあなたに届けることができた。と言うことも事実です。この逆説的なパラドックスに驚きました。
 
 悪役を演じてくださった方々には、感謝いたします。ただ、「もういいですよ。」ということも伝えたいと思います。これ以上、マイナスを生み、マイナスの中で生き、死後もマイナスに苦しむのは・・・そうしたマイナスのエネルギーに囚われるのを踏みとどまっていただきたいと思います。その人の未来に為に。そして地球全体がマイナスに引きずられ、戦争や災害に引き込まれることを避けるために・・・。
 このマイナスのサイクルを断つために、私たちもこのプロジェクトを進めてきました。それは私の問題だけではなく、多くの人々や集団が抱えている苦しみを消すためです。この危機を人類が越えるべきだ。と私たちのプロジェクトの価値を感じてくださる方は、少額でも構いませんので応援の寄付をしていただけましたら幸いです。
 
16. あなたの中に大聖堂を
 寄付をしていただける方に、私は一つのプレゼントをしたいと思います。それは、あなたの心のなかに既に大聖堂のビジョンや夢を届けたいと思います。心の中に?そんなのがプレゼント?と思う人もいるかもしれません。あなたが何歳であったとしても、私たちの未来はいつも、先に何が待っているかわからない海の中にいるようなものです。そんな時に、灯台の光があったら心強いでしょう。その灯台が大聖堂だと考えてみてください。
 どんなに厳しい状況が訪れても、未来の愛の大聖堂が、あなたを待っています。その扉を開ける日をイメージしてください。そこであなたは、愛に包まれ、次の未来を創造していきます。常に心のなかに・・・美しい愛の大聖堂がある。このビジョンや夢を、一人でも多くの人にお届けしたいと思います。そしてこんな風に、地球の多くの人々が夢や愛を持ち続けられる時、地球の未来に希望が膨らんでいくでしょう。世界では、戦争や災害も広がり、希望がしぼみ、愛も失われやすくなっています。そんな時に、常にあなたにとって最高の大聖堂が待っていることを描いて欲しいのです。
 さらに、夢には若さや幸福感があります。夢をいだいてる人は、目に輝きが生まれ、若々しいと思います。その人が30歳であっても、60歳であっても、90歳であっても・・・ 心の奥から湧き上がる若さで、肌の艶、美しい瞳、行動力、立ち姿も変わると思います。そして夢を描いている時、あるいは描けるような心境の時、幸せであることが多いと思います。そんなきっかけになる大聖堂の夢をお届けします。
 
そして私たちは、現実としても、大聖堂完成に向けての進捗を発信していきたいと思います。時々、あなたの大聖堂のビジョンや夢が形になっていくのを確かめていただきたいと思います。このブログをご覧いただきたいと思います。またビジョンや夢を見るだけでなく、建設に参画したいという人もいらっしゃるかもしれません。なので今後、ボランティアや、スタッフ、協力企業も募っていきたいと思います。
 
寄付いただいたものは、大聖堂建設に必ず生かして参ります。ささやかな寄付でも、嬉しく思います。そしてこんな状況にもかかわらず、興味を持って既に声をかけてくださる方の声も出てきて、本当に嬉しく思います。今はまだ、この状況なので、ボラティアしたいと言ってくださる方しか受け入れられません。
しかし、少しでも早く、いただいた寄付を生かし、スタッフを募れる体制も整えていきたいと思います。そのためにも、お知り合いに拡散いただけましたら幸いです。最も多くの寄付をいただいた国でプロジェクトを進めていきたいと思います。
 
日本円・ユーロ・ズロチの3種類の口座をご案内させていただきます。
以下の動画は私たちのプロジェクトを絵本のようなストーリーでご紹介した、新しいエピソードです。20分程度で少し長いですが、お時間のある時にご覧いただき拡散していただけましたら幸いです。
https://www.4shared.com/account/home.jsp?sId=To5REsYRu7a5btZY&changedir=rXPVhKKn

 
長い間、ご覧いただき、本当にありがとうございました。
心から感謝申し上げます。
 



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日本円/ ズロチ(ポーランド) /ユーロの振込先をご案内します。
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※万が一送金できない場合はご連絡をお願い申し上げます。+48 734 681 999
もしくは、7月20日と21日のプロジェクトの直接申し込みの会場にお持ちいただけましたら幸いです。