広島の原爆の歴史と重なる‘‘今‘‘

 前回は直接申し込み、寄付活動継続のお知らせをさせていただきました。
それに加え、ロシア資産の差し押さえに関して触れさせて頂きました。
もし私が寄付活動も全て順風満帆であったとしたら、書かなかったかもしれません。
しかし、既に様々な妨害もあり、生命の危険も感じていました。
こんなことに触れれば、戦争を推し進めたい人々などから、ますます狙われかねない。という現実でした。
ただ、実際は寄付活動も厳しい状況にあります。
友人に迷惑をかける事にも限度があり、もう去らなければなりません。従って私自身がクリスマスを超えられるかも分らない状況です。
それなら、伝えられるときに出来る限りの事をしようと思い記載しました。
特定の国や組織を非難する事が目的ではなく、世界の全ての人々がそれぞれの立場で平和を実現する為に、少しでも想いを寄せたり行動していただけたらと切に願いお伝えしました。
本日も、全く同じ目的で書かせていただきます。
触れさせて頂く国や人物、資料についてもあくまで上記の目的のためとして受け止めていただけましたら幸いです。
 
私は今朝、早朝4時前に目を覚ましてしまいました。
寝ていられず、起きて祈りをし暫くすると、もう少し書かなければならないような気がしていました。
それはこのまま戦争が続くと、ウクライナの人々はこの寒さで電気も失っているというのに、もう世界の人々は慣れてしまい…
ウクライナの人々を暖かく身を守る支援よりも、兵器や軍事力による支援に多くが費やされ…
さらに今後、EUが本格的にウクライナと共に戦うという事になれば、戦場はウクライナとなり…
各国の憎しみがぶつかり合う戦場として多くの被害が出ても、世界の人々にとってはニュースで伝えられるただの情報でしかなくなっていくかもしれません。
なぜなら多くの人が、自分の仕事や生活が厳しく余裕がなくなっています。
そして、代理戦争の地として被害を受け続けるウクライナの人々は、かつての人種差別以上の境遇にさらされることになります。
内容が頭の中でグルグルしている間に明るくなってきました。
過激な内容ではないか?
少し時を待とう。
そう思って寄付活動に出かけました。
すると午後にウクライナの女性が寄付に来てくださいました。
とても明るい雰囲気の方でしたが、4日ほど電気もなく毎晩警報が鳴り響いている。という深刻な状況を聞かされました。
笑顔でその切実な内容を聞いていると、英語力の理解が乏しい私は、言葉ではなく波動や心で会話を受け止め…
涙が溢れてきて止まらなくなりました。
現実とは思えない大変な状況なのに…
それを太陽のように明るく語る彼女の姿が、涙でぼやけていきます。
何も言う事が出来ず…
彼女は今日の朝ベオグラードに来たとのことでした。
そして周りの人たちにも声をかけて募って下さった寄付のお札をアクセサリーの上に積み上げました。
それは彼女が選んだ寄付のプレゼントのイヤリングの2倍以上の金額でした。
子供たちがどんな風に生活しているかを巧みに語る彼女に、あなたは先生ですか?と聞くと、そうです。と答えました。
いろんな話をしてくれた彼女は、最後にありがとう!と言って颯爽と立ち去っていきました。
私は朝のインスピレ―ションが偶然ではなかったと思い、慌てて寄付活動を止めて滞在場所に戻りました。
そして今、朝感じていたことを書いています。
第二次世界大戦の時、米国と日本の和平の仲裁に取り組んでいたのはソ連(ロシア)だったようです。
現在は米国が仲裁する側になり、少し重なるようにも思えました。
当時は和平が実現せず、東京には人類史上最大の130回に及ぶ空爆が行われました。そして広島や長崎に原爆が投下されました。
それに関する内容を少しご紹介します。
部分的な抜粋になりますので断片的な内容になることをお許しください。
気になる方は、ページの全文をご覧ください。
写真;広島原爆の視覚的資料ウェブサイトより
NHK戦争を伝えるミュージアム>原爆が使用されたのはなぜ?どのような被害があった」より引用
原子爆弾(原爆)は1945年8月6日に広島に、9日に長崎に投下され、年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が亡くなりました。戦争が終わってからも、放射線によって多くの人々が苦しめられました。
さく裂後に発生した火球の表面温度は約0.2秒後にはセ氏7700度となり、爆心地周辺の地表面の温度はセ氏3000度から4000度にも達した。爆心地から約1.2キロ以内で熱線の直射を受けた人は体の内部組織にまで大きな損傷を受け、そのほとんどが即死または数日のうちに亡くなった。
爆心地から900メートルにあった旧制広島県立広島第一中学校
広島県立第一中学校の1年生の307人のうち、半数のおよそ150人は、原爆がさく裂した地点(爆心地)から900メートルほどの屋外で作業をしていました。強烈な熱線で生徒の皮膚は焼けただれ、全身に致命的なやけどを負いました。さらに、爆風によって地面に叩きつけられたり、飛んできたがれきによって傷つけられたりしました。また、この地点には致死量の放射線が降り注いでもいました。生存できた生徒は1人もいません。
もう半数の150人は、爆心地から900メートル弱の場所にあった校舎で自習をしていました。爆風で木造の建物は押しつぶされ、生徒たちは下敷きになりました。熱線によって、崩れた建物に火がつき、生徒は「お母さん」「天皇陛下万歳」などと叫びながら焼かれていきました。
下敷きになった150人のうち、数十人は何とか脱出し家族のもとに帰ることができましたが、1週間ほど経つと頭髪が抜け、歯ぐきから出血するなどの症状が現れました。建物を通り抜けた放射線が、生徒たちの細胞を傷つけていたためです。白血球がつくれなくなるなどして、免疫機能が極度に低下し、感染症に襲われました。また、全身で内出血が起こって体中に斑点が生じ、腸の内部が崩れるなどして、下血が始まりました。生徒たちは衰弱し、亡くなっていきました。
原爆では、行方不明となった人も大勢います。軍隊、役場、警察、医療機関などが壊滅的な被害を受けたために、いつ、どこで、誰が亡くなったのか、記録もほとんどないのです。広島市の原爆供養塔には、引き取り手のない7万柱の遺骨がいまも安置されています。
 
語れなかった東京大空襲の真実――首都圏制圧のための大虐殺 130回の空襲で死者・行方不明者25万人(東京大空襲資料館のホームページより引用)
東京大空襲・・・1945年(昭和20)3月10日未明の東京下町 (したまち)地区に対する爆撃を中心とする、アメリカ軍の大量無差別の航空爆撃作戦。沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ太平洋戦争中の日本における大戦災となった。
”3月10日の午後5時頃、マリアナ群島の米軍基地を発進したB29戦略爆撃機325機は、13,000発のナパーム焼夷弾を搭載して東京に向かいました。その狙いは、木と紙でできた家屋が密集する旧浅草、本所、日本橋を含む東部地区を焼夷弾攻撃で焦土と化すことだったのです。10日午前0時7分から午前3時まで続けられたこの大空襲で、およそ10万人の死者、11万人余りの負傷者、そして家屋の焼失約100万戸という惨劇が生じました。広島、長崎の原爆による被害にも匹敵するものです。”
空襲の範囲も非常に大きく、東京大空襲だけで41㎢、全体を合わせると焼失面積は約140㎢に及びました。これは東京23区の市街地の約半分、23区全体の約4分の1に相当します。
(中略)
敗戦を迎えるにあたって、あのドサクサのなかで米軍上陸、単独占領に誰が荷担したのか。東京大空襲で無傷だった施設を見ただけでも歴然としている。戦後は「財閥解体」といったが、財閥はしっかりと温存された。戦争に国民を投げ込んだ天皇はじめ、官僚機構も丸ごと温存された。開戦時の商工大臣をしていたK氏が、その後CIAのエージェントとして力を与えられたのが象徴的だが、政界、官僚世界などが叩きつぶされることもなく、対日占領の協力者としてせっせとアメリカに媚びて戦後も機能していった。メディアでも大本営の中枢にいた読売新聞のS氏や朝日新聞のO氏などがCIAのエージェントとして活躍する始末だ。
イラクでもアフガンでも、他国を占領しようと思えば必ず抵抗があるし、何年かかってでも肉弾戦で侵略者を叩き出そうとするものだ。日本の場合、なぜ無抵抗に近い形で単独占領することができたのか。それは支配機構が丸ごと占領の協力者になり、国を売り飛ばしたからだ。支配機構が軍事支配を受けながらアメリカの道具になって戦後は機能していった。それが今日まで続いている。
 当時の駐日大使は、この方向で「天皇を傀儡にして間接統治する」という占領プログラムをつくった。そこでは、戦争中も「短波放送の聴取が許される500人ぐらいの日本のエリートに常に知的な情報を粘り強く伝達せよ」と米陸軍に提案している。実際、1945年5月から「ザカリアス放送」という日本の上層のごく限られた者しか聞くことができない短波の日本向け放送をやり、いつどこを空襲するとか、広島、長崎への原爆投下をいつやるかも全て伝達していた。これら米軍からの情報を集中しながら6月段階で、米軍の攻撃を全部開けて通して、「アメリカに敗北することで自分たちの地位は保証されることが約束されている」と側近が天皇に提言していた。
「米英は国体(天皇制)の変更までは要求していない。最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴っておこる共産革命だ」というものだ。彼らの関心は戦争の勝敗などではなく、いかに国民を押さえつけてアメリカの占領下で地位を守ってもらうかだった。そのためなら原爆を落とされることも甘受するし、東京を焼き払って人民大衆をへとへとに疲れさせることはむしろ好都合という関係だった。
写真;広島原爆の視覚的資料ウェブサイトより
日本への原子爆弾投下は、1963年東京地方裁判所の判決により、「国際法違反であった」という司法的判断が示されているようです。
ウィキペディアにも以下のように記されています。
 
東京裁判において連合国側はニュルンベルク裁判と東京裁判との統一性を求めていたが、インドラダ・ビノード・パール判事はその不同意判決書の中で、日本軍による残虐な行為の事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている[76]」と、戦争犯罪人がそれぞれの指令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・ドイツの事例との重要な違いを指摘した上で、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとした。
 
ワシントン・ポスト紙は、毎週「5つの俗説」として、世間に流布されている通説に対する反論を行っている。先週の回では、アメリカによる広島・長崎への原爆投下が70年を迎えるにあたり、カリフォルニア大学名誉教授であるグレッグ・ハーケン英語版)による原爆投下に関する通説への異議を掲載している[150]。 「原爆に関する5つの俗説」として以下のものが挙げられている。
原爆が戦争を終わらせた。
原爆が50万人のアメリカ人の命を救った。
原爆のほかは日本侵攻しかなかった。
原爆投下前に日本に警告があった。
原爆でロシア(ソ連)に対する外交的有利さを得るようタイミングが図られたし、実際に初期の冷戦時には切り札となった。
 
この内容を拝見すると、幸福の科学の大川総裁が語られていた、「戦争は勝った方が正義になる」という言葉が事実であったことが分かります。
原爆がどれほど凶悪な殺戮兵器であり、国際法に違反したとしても、勝者である米国は罪を咎められていません。そして戦争犯罪の罪は日本に問われました。
米国は賠償責任も被害の責任も問われていません。
この事実を見ると、現在ロシア側に問われようとしている賠償請求は逆であることが分かります。敗者であるウクライナ側が戦争責任及び賠償責任を果たさなければならない事になります。
しかし多くのメディアの報道は当初はロシア大統領を標的にし、その後はウクライナの敗北の事実を感じさせないような方向に向けられてきました。
そのため、勝者であるはずのロシアに賠償責任が問われたり、ロシア資産が凍結されたり、資産に関する資金が奪われようとしています。
それが当然の事のように語られています。
ロシア側は、はっきりとその間違いに言及されています。
この事実に耳を傾けず、かつての第二次世界大戦のように和平を結ぶ機会を失った場合…
再び核戦争の危機を迎え、世界は歴史を繰り返すことになるかもしれません。
これまでもそうでしたが、戦争は被害が出れば出るほど、互いに止められなくなっていきます。
そして冒頭にも記載しましたが、最も苦しむのはウクライナの人々です。
さらに拡大すれば欧州や他の国々にも被害が及ぶかもしれません。
ロシアは、安易に核兵器を使用することなく、今後も冷静に戦いを進められるでしょう。
しかし自国の領土や国民に甚大な被害が出た場合や、それが予測される場合には必ず自国を守り抜かれるでしょう。
そしてこの戦争で問われた時代の転換点となる価値や正義を必ず貫かれるでしょう。
その時に、様々な国の思惑が交錯しぶつかり合うと、人類の滅亡にもなりかねません。
しかしまだ間に合います。
全ての国が判断を今一度見直したり…
事実を公平に伝える報道がなされたり…
人々が厳しい環境下でもネガティブな流れに流されて悲観的になったりあきらめたりせず…
希望を捨てず、たとえ小さなことでも愛を選択し善を推し進めることです。
そして歴史を繰り返す未来を変える事。
この点に関しては、敵も味方も協力できる唯一の共通目標にすることが出来ると思います。
そして世界が宗教の普遍的価値を取り戻すという事は、過去の伝統を守るという事だけではありません。
時代を超越する大宇宙の真理であるからこそ、そこに未来への鍵が永遠と眠っています。
それが高度な宇宙人たちが、実は地球の愛や宗教的真理を学びに来ていると言われている理由です。
宗教の価値に対する見方を大きく転換することが出来るかという事も問われています。
しかしそれを成し遂げ、どの宗教とも‘‘もとは一つの木としてつながっている‘‘という共通意識で協力し合うことが出来れば、多くの紛争や戦争の原因も消えていくでしょう。
昨日はEUの皆様が長時間にわたる協議を行われ、ご尽力下さった事に感謝いたします。
どうか他国の皆様も共に、もう一段の愛を尽くし前進していただけましたら幸いです。
そして紛争解決のプロセスをご活用いただけるようでしたら12月20日から22日の直接申し込みの際にお申し付けください。
すべての皆様が共に、今日も何らかの愛を尽くし、幸福な一日を噛みしめていただけましたら幸いです。
皆様に主の愛が降り注ぎますように、心からお祈りしています。
Photo: by Pixabay
このページの写真は、広島原爆の視覚的資料ウェブサイトとPixabayのイメージを使用しています。

*掲載されている内容の一部及び全部の無断転載・複製の利用は固くお断りします。
*Copyright 2025 ELvision.inc ,All Rights Reserved.